中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(122)私を守ってくれたのはだれなのか

                       《話を戻します》

 シャロンとサイモンと会って翌日、お互いの著書を通じて知り合っていた信原さんを訪ねて、今後の生活へのアドバイスをいただいた。

 信原さんが発行している「JP・オーストラリア」誌へ、今後毎月寄稿してほしいと依頼され、 その後10年間 「パースからの便り」をお届けした。

パースに到着して最初にしたことは、約束していた不動屋さんの彼に連絡することだった。

翌日から中古住宅をたくさん見せてもらったが、彼が案内してくれるのはパースに近い南部の地域が主だった。 私たちはパースより北方面に住もうと決めていたので、かれにその旨を伝えると、夫婦で働いていて、子供を学校に迎えに行くのが私の担当だから、北のほうまで足を延ばせないという。

 それなら、私たちが「売り家」と看板の出ている家を探して、そこに書いてある不動屋さんに連絡しないで、君に連絡するから、中を見せてくれるように手配してほしいと言った。 

日本でもカナダでも豪州でも、ある物件に関して、先に客と会った人に手数料が渡るシステムのはずなので、彼に手数料が入るようにと配慮してあげたのだった。

 次の日から、妻と二人して中古物件の家探しが始まった。 昨年の調査旅行で土地勘が出来ていて、地図がなくても走れる。

 海の見えるところにしたいが、海に近すぎると風に飛ばされてきた塩分で、家がダメになるとも聞いていたし洗濯物にも影響するので、それらを配慮しながら私たちの望む条件に合うものを求めて、車を走らせた。

わずか三日目に素晴らしいロケーションの物件を見つけたので、彼に連絡を取り、翌日に見せてもらうことになった。

  地域名はソレント市、フリーウエイでパースまで十五分の静かな住宅街で治安が良いことでも知られた場所だと、後で知った。

 土地は八百平米あり、平屋建ての住宅は二百六十平米である。 芝生の広い前庭があり、裏にはプールと花壇がある。 ガレージは車二台がゆったり入る大きさであり、大きなガレージシャッターがついている。

 家の前の道路を隔てたむこう側は、サッカー面が三つとれるほどの芝生の公園が広がっていて、その向こうに住宅街があり、住宅街越しに海が見えるというロケーションだ。これ以上は望めないというほどの物件だった。

 ブリック積の家だった。ブリックというのは、レンガより大きく、ブロックより小さいが、中に穴が開いている。西豪州は州の建築基準で木造家屋は認めておらず、ブリック積かコンクリート家屋がすべてだった。

「ブリック」を外側に積み上げ、25センチほど空間を開けて、内側にも積み上げるという構造になっている。 その空間に電線、ガス管などが入っている。

 この空間のある二重構造で、外気温が遮断されて、室内が快適になっているようだった。

 ブリックの色はガス焼き独自の味が出ていて、しっくりときれいだった。 最近ではガス焼きのものがなくなっていて、電気釜焼きのものばかりで、単色で味わいがないというが、この物件のブリックはガス釜で焼かれたもので、とてもシックな色だった。

  屋根は高く、天井も高いので快適に住めそうだ。 屋根裏には配線などがあり、断熱材がびっしり敷かれていた。

  玄関を入ると、左側に一段下げた客用のリビングルームがあり、一段上げた客用ダイニングルームとつながっている。 玄関の右側には日本では書斎というスタデイーがあり、次いでゆったりとしたベッドルームがある。 ベッドルームの中には大きなドレス用の部屋があり、隣に洗面所、トイレ、ジャグジ-風呂、シャワールームがある。

 玄関を突き当たるとリビングルームがあり、とても大きなキッチンがある。リビングの左にはゲームルームがある。 リビングの向こうには客室が二つと、客用の浴室とトイレがある。物置部屋があり、次いでランドリーがあった。 ランドリーの外にも花壇があった。

 

リビングルームの四枚のガラス窓はとても大きくて高く、すべて一枚ガラスだった。プールが目の前に広がっている。 買ってから気がついたが、私はプール管理が大変だったが、妻は多すぎる花々の管理が大変だった。

芝生の庭は、月に二度の刈込を業者に依頼していたので困ることはなかった。

 この家は築後ちょうど十年だった。 地震のないパースでは、ブリック作りの家屋は二百年でも大丈夫なようだ。

 これ以上の物件はないだろうと思い、即座に仮契約をした。価格は2千万円弱だった。 当時の日本では、60平米のマンションも買えないだろうという金額だ。 仮契約にしたのには理由がある。

 わずか二年前までは、中古住宅の売買は自由だったが、 日本人が、バブル経済に悪乗りして、ゴールドコーストなどの中古住宅を買いあさった結果、豪州政府は移住者に対しても政府の許可が必要になったのだった。

 私たちの場合、ビザを持っているので許可が下りるのは間違いなかったが、二週間度待たねばならなかったからだ。

 その夜、彼は私たちを中華レストランに招いてくれた。