中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(94)私を守ってくれたのはだれなのか

  《砂子君はいまどこに・探しているのです》

 前回の町内会会長さんとの間で話題になった砂子君。実はこれまで生徒の名前は仮名で書いてきたのですが、彼の場合は実名です。私たちが豪州から帰国後に彼を捜したのですが、分からないので、読者の方で彼のことをご存じの人がおられたらと願いながら書きました。

  《話を戻します》

  鷹匠中学校の校長先生から、階段の上がり降りの際の事故を懸念する公立高校は

入学させられないので、養護学校への入学を強く勧められたという。

しかし、彼のお母さんは、固く神戸暁星学園を信じて下さり、中学校の指導に逆らってこの学校に入学させたといういきさつがある。

重度の身障者重度の入学に科技校も反対だったので難航したが、本人とも十分話し合って、わたしが責任をもって引き受けたのだった。砂子君は、障害があることなど気にしない明るい生徒で、校内に「プロレス研究会」を開いた。

不自由な下肢にもかかわらず、プロレス研究会の仲間と遊んでいた。砂子君の陽気さは授業中にも現れ、そのおしゃべりは歴代ナンバーワンに入ると語り継がれたほどだったが。

この陽気さが多くの友人を作る結果となり、商店会の会長さんが目撃したように、数名の友人が駅から学校、学校から駅まで、彼のカバンを運んでやるのだった。これは四年間続けられました。このことはやがて新聞にも大きく報道されました。そして、この時の仲間の固いきずなはずっと続いたのだった。

その友情の現われに「六甲縦走」の際の想い出がある。担任だった植松先生と砂子君たちとが六甲山を縦走しようと計画し、日曜日の朝早く出発した。平道を歩くのも大変な砂子君にとって、坂道はことのほか厳しいものだっただろう。

登りの石段を、彼は後ろ向きになり、両手で身体を持ち上げ一段一段登ったのだ。彼の友人は一切彼に手を貸さずに見守っていた。かなりハードな行程を歩き、日が西に傾いて薄暗くなる頃、砂子君は倒れそうになった。

彼が後に語ったところでは「死ぬかと思った」そうだ。それでも友人たちは直接彼に手を貸さなかったのだった。

道が二つに別れるところでは、二つの道をそれぞれに友人が走って偵察し、砂川君に余分の負担をかけさせないよう、やさしい配慮をみせた。あたりが真っ暗になる頃、完走し下山した。植松先生は感動し、目に一杯涙を浮かべて私に報告してくれたのだった。

 

彼は卒業後、京都コンピューター専門学校に学び、卒業後にコンピューターのソフトの会社に就職した。 障害者に深い理解を持っておられるオーナーのもとで、彼はのびのび仕事をし、その後、なんと野村先生の長男を自分のいる会社に就職させたのだった。

野村先生は、

『教師が生徒の就職の世話をするということはあるけれど、生徒が教師の子どもの就職の世話をするということはあまりないことでしょう。 それも脳性小児マヒの子の就職を世話してくれるなんて。私はこの学校に来て、いろいろと教えられることがあったけれど、今度のことは本当に最高です、感激です』と喜んでいた。

砂子君の仕事はコンピューターのソフトを作る仕事で、プログラマーなのだ。

 

 

      《昭和63年頃の学校説明会でのこと》 

 私この学校の生徒全員にコンピューターを教えようと、開校の年から教科に取り入れ富士通のコンピューターを導入していた。二年目には、一クラスの全員がコンピューターに向かいあえるようにと大量導入していたのだった。

ところが学校説明会に集まってきた中学校の先生から

『失礼な質問ですが、クラスの最下位の者を、この学校に送るつもりでいます。お世話になるこの学校では、コンピューターを教えていると、学校案内にも書かれていますが、わたしが送り込もうとしている生徒がコンピューター操作をできるようになるとは思えません。これは、生徒募集のための宣伝のようなものですか』

余りにも失礼な質問過ぎて驚いた。失礼だと思っているのなら、もっと質問の仕方を考えるべきだろうが、宣伝のためかというストレートな質問には腹立たしっかったが誠意を持って対処した。

 

当時はまだ卒業生はいなかったが、卒業生からは砂川君のようにコンピューターのプロとして活躍している卒業生が何人もいる。

アメダス」 のソフトを作った会社に、大卒に混じってわが校から入社した生徒もいる。彼は在校時から、この会社にプログラムを投稿し続けたことが認められて入社したのだった。

砂子君のお母さんからその後を聞き聞いた。

『学校時代、しゃべりすぎて頭がカラッポになっていたからよかったのでしょうか。今は残業、残業で大変なようですが、多忙の合間を縫って、本をむしゃぶり読んでいます。どんどん吸収しているようです。砂に水が吸い込まれるように、いろいろなことが理解できるようです』

重度の障害を持っているのに、楽しく暖かく勇気のある砂子君。彼をこんな風に育てたお母さんが立派なのだと思うのだった。私が彼のお母さんにそう言うと、お母さんは、

『いいえ。私は何もしておりません。あの子が自分で築いたのです。そして、あの子が明るくなったのも、たくましくなったのも神戸暁星学園へ行ってからなのです。本当に感謝しております』 と言って下さる。

彼らの仲間たちも全員すばらしく、後輩の卒業式には彼とともにスピーチをしてくれた。

彼らの友情はいつまでも消えることはないだろう。

 

《失礼な質問への答弁》

 学校説明会での失礼な質問には次のように答えた

『ご質問くださった先生は、これまでにコンピューターを操作したことがありますか。たぶん、

コンピューターのことをご存じないのだと思います。 ここにお集まりの先生たち三十人ほど

の中にも、経験のない方がほとんどだと思うのです。なぜならば、先ほどの質問に大きく

うなずいておられた方がたくさんおられた(笑い)からです。 

コンピューターは、あと十年もしないうちにどんどん進化していくでしょう。

どこの小売店だってコンピューターを導入する時代は近いと思っています。 そのように

なってから、学ぼうとおもっても遅いのではないでしょうか。 生徒たちが在校中に、どこまで

やれるようになるかは個人差があるでしょう。 しかし、生徒たちは、少なくともコンピューター

を何百回もいじっていた、俺たちは学んできたのだという自負心が、時代に乗り遅れることは

ないと思います。先生たちも、明日から始めないと追い抜かれますよ』

みなさんが真面目に聞いてくださって、認識を改めたくれたようだった。