中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(78)私を守ってくれたのはだれなのか

     《救いの神》

青山興産の社長に銀行の紹介をしていただこうと、山田氏にとりなしをたのんだ。青山氏は韓国系の銀行の役員でもあるので、新たな門戸が開かれるかもと期待したのだった。 

青山氏は、朝銀兵庫信用金庫を紹介してくださった。 私が専務をしていた中西興産に汚いビルを見せて改築費の見積もりを依頼した。 

一階は教員室と校長室及びコンピューター室に。他の階はすべて30人未満の教室を二教室にし、ビルの道路側外装は、すべてタイル張りという指示をした。 そのうえで、ビルの取得費と改修費を含めた金額の融資をと厚かましいことを考えていた。

青山氏は、あなたは朝銀とは、これまで取引がないのだから、融資がむつかしいと思うからと、500万を貸して下さり、それを長銀に預けたうえで融資を申し込むようにと知恵も貸していただいた。むろん無利子ではない。だが私には地獄に仏がいたのだった。 もちろん40歳のころから交友のあった、山田氏のバックアップがあったからだと思える。 人と人との縁というものの不思議さを考えた。 

             《生徒たちのもめごと》

そんな中、学校では18人の生徒が三派に別れて対立し、保護者まで巻き込む騒ぎになった。 人はわずかのことで派閥をつくる。 この時は勢力争いをしていた、一方のボスが、もう一方のボスを倒そうとデマを流したことが発端となった。そして保護者会まで開催するまでに騒ぎが大きくなった。

中傷されたのは、黒木君だった。 騒動の真相究明のために開かれた保護者会に黒木君は『僕も出席させてください』と言い、自分の潔白を堂々と説明して、一件落着となったが、デマを流した生徒は学校に来られなくなった。 

彼の家まで何度も足を運んだが、残りの生徒たちの信頼を失った彼は、もう学校に戻ることが出来なかった。 

       ぜひ書いておきたい生徒がいる。 白川君という。比較的おとなしい、小柄な生徒だが、端正な顔立ちの生徒だった。 彼の母は、学校行事にも積極的に参加していた。 一学期の終わりに、エレベーターの前で立ち話をしていて

『お母さん、この夏休みに白川君にアルバイトをさせてみたらどうでしょう』 彼の無気力を嘆いていたので、バイトをさせたらと提案したのだった。 他の生徒たちにも、積極的にアルバイトを奨励していたのだった。

アルバイト禁止の学校が多いが、わたしは家庭教育、学校教育、社会教育の三本があってこその教育だという持論を持っています。 家庭教育が少なくなっていき、学校に託児所のように子供を預け、学校でしつけをしてくださいと、いう親が増えている現状の中では、社会教育こそが生徒たちを目覚めさせる機会だと考えている。

 白川君のお母さんは、『先生、そんなこといわれても、あの子にアルバイトは無理ですわ、お金の使い方だって十分にわかってないんですもの』

『お母さん、彼を信じて大丈夫ですよ。彼はもう立派にアルバイトが出来ますよ』

『そうでしょうか』 

エレベーターのドアが開くまでの短い会話だった。

 十月の中間考査の時、コンピューター担当の私がちょっと意地悪な出題をした。一学期中に教えたベーシック言語を使って図形を描くようにと言ったのだった。しかし、夏休みをはさんで、彼らはほとんどベーシック言語を忘れていたのだった。

わたしが示した図を見て座標を取り、ベーシック言語を使ってプログラムを作るのだが、だれもできない。

 私には、次の狙いがあったのだ。テストが終わると同時に、「モデル回答」を張り出した。 生徒たちは、そのモデル回答を見てすぐに入力を始めた。50行ほどの短いプログラムだった。入力が終わると、画像が現れる。

『なんや、簡単や。これだけで、こんな画像が描けるのか。他にも教えて』

と食いついてきたのだから面白い。

次から次へと、別のものを求めてくる、色の付けかも教えろという。もうコンピューーターの前から離れようとしなくなった。

『これまでに教えたベーシック言語を使うだけで、いろいろできるのだから、もっと覚えれば,もっといろいろできるようになる』

生徒たちは夢中になって、まいにち質問詰めになった。

やがてある生徒が「神戸港風景」のグラフイックが作れるようになった。六甲山があり、中腹に神戸の市章の錨のイルミネーション、ポートタワーが明るく輝き、港には満艦飾りの船が浮かんでいた。 ソフトを使用せず、各自がベーシック言語で作ったものなのだ。

     十一月に文化祭を行った。保護者たちの目の前で生徒一人一人が操作していく。

 文化祭に来た白川君のお母さんが寄ってきて

『先生、わたしは今日から息子のことを尊敬します』

と言ったのだった。 親に認められた子供が成長するのは、当然であった。 その後の彼は、水を得た魚のように生き生きとし、恐るべき成長を遂げたのだった。 ほとんどが大卒採用のスカイラークに数少ない高卒で採用さされ、各地の店長を経験したのちに退社し、大阪のユニバーサルスタジオに入社し、部長職となった。

 彼は在学中にすかいらーくのアルバイトをし、厨房のチーフになり、授業料を自分で稼ぎ出していたのだった。お母さんの彼とは心配した彼とは別の人のように成長を遂げたのだった。

           《二期生の卒業式の話》

  また話を前後する。二期生の卒業式に、一期生の白川君と藤岡君をゲストとして来てもらった。 卒業していく後輩たちに、はなむけの言葉を話してくれと頼んでおいた。

 彼ら二人のスピーチが素晴らしすぎて。ゲストや私のスピーチがかすんでしまうほどだった。 

列席してくださった神戸市中学校校長会会長の寺尾先生は、

『私は長い教員生活を今年で終えますが、今日ほど感激した卒業式は初めてです。素晴らしい卒業生ですね』 と、ほめてくださったのだった。

 白川君は、

『理事長は、私たちにおっしゃった言葉を覚えていますか』

『どんなことだったかな』

 

『理事長は僕らに「今、君らは遊んでいたっていい。しかし、卒業して社会に出たら、死ぬまで勉強しろよ。 学校でする勉強なんか、たかが知れたものなのだ。大切なことは、社会へ出てからどれだけ勉強 をするかということなのだ。これだけは覚えておけよ」とおっしゃったのです。 僕は覚えています。そして、実行しています。卒業したその日から、毎日勉強を欠かしたことはありません』

何ということだ、私の信念をそのまま実行してくれているではないか。私は感無量だった。 彼は続いて言った

『組織が僕に百を期待するのなら僕は百二十にして返すつもりです』 という、それも私が言ったことではないか。彼はすなおに聞いてすなおに実行していてくれたのだった。 彼は私より大物なるなとおもった。

 『だがな、大切なことを一つ言っておくから、これも覚えておいてくれよ。 なにごとも健康が第一だ。 体を病んでは目的を果たせない。そのためには、自制心を養い、自分の身体の管理をお粗末にしないことだよ。 それが出来なきゃ、意味がないからね』