中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(88)私を守ってくれたのはだれなのか

    《不登校児の宮口君と三田君の場合》

 宮口君と三田君はともに中学時代は不登校の生徒だった。四月に入学以来二人は親しくなった。二人のタイプは全く違っていた。宮口君はおとなしいタイプであり、三田君の場合は普段はおとなしいが、直ぐにかっとなってしまい、乱暴な言動が目立つ生徒だった。二人が親しくなれたことで、学校に休まず行くようになり、親たちも喜んでいた。

ところが、三田君はその性格ゆえんにクラスメートと争いが絶えず、口を極めて悪口雑言をいうので嫌われ、彼の机といすが廊下に放り出されるということがあった。

  六月のある日に、教師から指名されて黒板に回答を記入し、席に戻る生徒に三田君が足を出して転倒させて、にらみ合いとなり、けんかが始まった。

その時、宮口君が三田君に「喧嘩は するなよ」と言いながら後ろから抱きかかえたのだった。

ここまでなら美談ですんだのだが、現実はとても厳しいことに発展してしまった。

三田君は「お前は関係ない。どけ~!」と言いながら、抱きかかえていた宮口君を振りほどこうと、右腕を強く振ったのだが、それが宮口君の右目の下に当たった。 宮口君は「痛い!!」と、その場にうずくまってしまった。 それは、本当に一瞬の出来事だった。

         《開校以来最も大きな事故に》

  宮口君の右目の下の骨が内側に向かって折れ、その折れた骨に眼球がひっかかり、眼球が動かなくなってしまったのだ。 開校以来、最も大きな事故となった。

三田君は、やんちゃなタイプという生徒ではなく、友人のできにくい子供だった。 気性が激しくわがままなので友人ができにくく不登校につながっていたようなのだ。 その原因の中に、時おり起こるてんかん発作で周囲から馬鹿にされるのを恐れて、周囲に対して挑発的になり、敵を作り、やがては不登校につながっていったようなのだった。

そういう三田君を、宮口君は心配していたようなのだ。 せっかくできた友人だったのだから。三田君がケンカを始めた瞬間、隣の席にいた宮口君が「やめろ!と後ろから、抱きかかえたのだったが、中腰だったので、 振り払おうとした三田君の肘が運悪く顔に当たったのだ。

  そのご、三日経っても宮口君の右眼球は動かず、手術も難しい箇所なので、当分は手術も見合わせると医師が言う。

わたしは彼の両親に心から詫びた。 いくら瞬間的な出来事と云えども、学校内の事故なのだ。詫びてすむようなやさしい事柄ではないだけに、 ことと次第によっては学校の風評に大きな影響が出ることを覚悟しなければならなかった。

この大事故には、後日談がある。 私が学校作りの中で、心がけていたことがあったのだが、それが学校を救うことにもつながったのだった。

ご両親に対して、今後も宮口君を大切に見守りたいと述べた。ご両親は

『先生、どうか気にしないで下さい。三田君は、息子が初めて作った親しい友だちなのです。もし、あの子の片目が永遠に動かなくなっても、三田君を失うよりましです。どうか、このことで三田君を責めないでやって下さい』

『うれしいお言葉をありがとうございます。三田君にも、そのお言葉を伝えます』

  宮口君のお母さんは、彼の過去について初めていろんなことを話し始めたのだった。

『この学校に入れていただいて、あの子は生まれ変わったように、大きく変わりました。これは現実なの? と思うほどの変わり方でした』

『そうでしたか』

『あの子の不登校は、私たち家族にとって、大変不幸なことだったのです。 毎日、近所の子供たちが学校へ行く時間帯になると暴れるのです。 そして、みんなが学校へ行ってしまった時間になると、落ち着きを取り戻して、おとなしくなるのですが、明日の朝のことを考える深夜になると、またまた暴れるという繰り返しの日々でした』

『なるほどね、彼なりに辛かったのでしょうね』

大阪大学病院に三年間も週に一度通って、カウンセリングを受けていたのですが改善しませんでした』

『ご苦労されたのですね。彼のあどけない顔を見ていると、そんなことがあったなどとおもえませんね』

『もう毎日が暗くて、辛くて、苦しい日々だったのに、この学校に入ってすぐに変化したのですよ』

『それほど急に変わったのですか』

『あさ、玄関で鼻歌を歌いながら靴を履いているのを見て、わたしは自分の目を疑いました。鼻歌を歌いながら出かけるなんて、小学校の三年生の半ばまででしたから』

不登校が長かったのですね』

『だんだん暗くなってきて、そして不登校が始まったのです』

『そんな過去があったのなら、お母さんはうれしかったでしょう』

『はじめは、喜べませんでした。明日になれば、元の状態になるのではないかと、ずっと案じていたのです』

『なるほどね、お気持ちはよく理解できますよ』

『最初は、いまはオリエンテーションだから行っているけど、普通の授業が始まったら午後の授業もあることだし、元に戻るのではないだろうかって、ずっと心配していました』

『それで‥』

『普通授業が始まっても、あの子はルンルン気分なのですよ。長いあいだの暗い生活から、やっと楽しい生活に戻っていたのです。それも三田君のおかげです。ですからこの学校の責任も問いません。仕方のない出来事だったと考えております』

『ありがとうございます。私たちも精いっぱい生徒のために頑張っています』

『先生、それよりも、このことで、あの子が元の状態になってしまうのではと懸念しています。病院ももうしばらく時間がかかるだろうと思っていますが、なによりも、あの暗い状態に戻ってしまうのではないかと恐れているのです』

『その点では、わたしにお任せください』

 せっかく長いトンネルから抜け出てきたのに、またトンネルに入ってしまうのではないかと強い懸念を持っておられた。

『私は、トンネル生活の中で性格も変わりました』

と、おっしゃったが、とても素敵なお母さまだった。

  幸いなことに十日後に、折れた骨に引っかかっていた眼球が元に戻り、骨折も日に日に回復すると言われたとのことだった。

 ところが、案じていたように不登校の傾向が出始めたと、お母さんから連絡があった。私は

『通院の帰りに、学校への挨拶にという名目で、ご両親と三人で学校に来ていただけませんか』

と、提案した。

数日して、学校の前に車を停めて、宮口君親子三人が職員室にやってきた。だれもが暖かく彼を迎えたのだった。その翌日から彼は登校するようになったのだった。

そんなことがあってしばらくたった時に宮口君に尋ねたことがある。

『お母さんのお話だと、この学校に入学してから、君は浮き浮きと登校するようになったらしいが、何かきっかけのようなものがあったのかな?』

と、訊いてみた。

『この学校に初めて来た時にびっくりしたことがあったのです。職員室が透明ガラス張りになっていて、中が全部見えるでしょう。しばらく見ていると、生徒たちもどんどん入っていって、先生たちと楽しそうにしているのを見て、この学校は凄いなとおもいました。それが僕の意識を変えたのです』

   私は小学生のころから、多くの学校の職員室が、生徒から隔離された場所のように感じていた。 窓際に荷物を積み上げている教師も多く、廊下から室内の様子が全く見えない。ドアを開けて初めて室内が見えるというのは、生徒と教師を引き離しているようなものだと考えていた。

生徒は、職員室を恐ろしいところだとおもっていることだろう。

  透明ガラスにして、職員室立ち入り自由というのは、 教師たちは息抜きが出来ないだろうが、学校は生徒のためにあるのであって、生徒たちに居心地の良い学校をと考えて考案したのだが、宮口君の口からそんな言葉を聞いてうれしかった。 私の信念が正しかったと思えてうれしかった。

 中学校で番長だった生徒とその取り巻きの生徒はいる半面、けんかが嫌いだとか、苦手な生徒も多い。特に弱い立場の生徒は、職員室に入って来る。様子見の生徒は、廊下にたたずむという感じだった。そして、時と共にそれらの生徒たちの表情が変わり、大人へと脱皮していくのだった。

        《大学検定試験に合格して大学進学》

  大怪我をした宮口君のその後を書いておこう。 彼は二年生の夏に、大学検定試験に見事に合格したのだ。長期登校拒否児だった彼が、この学校に来ることで、いきいきと蘇り、大学検定試験に、早々と合格したということはうれしかった。大学に進学したことは言うまでもない。

三田君は、この後も激しい性格は変わらず、トラブルメーカーを続けていたが三年生になってテニス部に入ったことで、大きな転機がやってきた。友人を得るためには、辛抱というものが大事なことだと、ったのだ。 初めて「辛抱」という二文字に目覚めた彼は急成長し、卒業し、社会人となった。

日本ではなぜ、不登校児が増えるのか。学校の受け入れ態勢の不備と、家庭教育の未熟さだと、わたしは思っている。「規則優先主義」の学校では、不登校児が増えやすいのではないかと考えているが皆さんはどう思われているのでしょうか。