中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(27)私を守ってくれたのはだれなのか

<中学校第一回・全校弁論大会で優勝>

  健康とはいえぬ体で日々の労働はきつかった。学業にも励んだが、農繁期の長期欠席で公式を学ばなかった数学の遅れは致命的だった。学習書を買ってほしいなどとはとても言えない環境だった。英語だけはよかったが、担任の泉先生が数学担当だっただけに身の縮む思いがした。

 三年生の一学期に、第一回・全校弁論大会が行われた。

担任の泉先生はクラスの全員に作文を書かせた。それを参考にクラス代表を決めるという。日常の生活と父を思う気持ちを書いた。

驚いたことに、みんなの前で一番優れた作文だと先生がほめてくださった。しかし、君は弁論には向いてないからなと言い、君の作品を氷室さんに読んでもらおうと思う。いいかねという。

氷室さんはクラスの委員長であり、いじめられているときに助けてくれたことも多い。うどん製造会社の娘でもあった。

 氷室さんの弁論は堂々としていて素晴らしかった。全校での一位となった。

先生が言うには、審査ではダントツの一位だったようだ。優勝の賞状は氷山さんに、わたしには副賞の鉛筆一ダースをくださった。

 <白紙答案で叱られる>

  泉先生に教わった言葉は忘れられない。二学期の期末試験で数学の答案を白紙で提出した。答案が戻された日に「放課後、残っているように」と言われた。

 『君はどうして白紙で出したのだね』

『分からなかったからです』

 『全然わからなかったのか』

 『そうではありませんが、公式を覚えてないので解けなくて』

 『あのな、大切なことを教えておくからよく聴けよ。 全く分からなかったのなら仕方がない。しかし、君が全然わからないとは、先生は思っていないよ。大切なのは、どんな方法でもよいからやってみる。答えが間違っていても良い。どこまでやってみたか、どういう方法で答えを見つけようとしたのかを、答案のなかで示すことが何よりも大切なことなのだ。 それを示さず、投げうったように白紙で出すようなことは、君の人生で二度とやってはいけないよ。 君は大きな可能性を持っていると思っている。だからこそ、粘り強くがんばるんだぞ』

   忘れられない言葉であった。その後の人生の中で、この言葉が大いに役立った。その後、50歳に高校受験を失敗し、行き場を失った15歳の少年たちのためにと高校を設立したが、すべての試験は選択式ではなく記入式とするようにと教師たちに指示し、試験問題を私がチェックするようにしたものだ。記入式の試験は個人の能力がよく見えるから、生徒たちへの学習アドバイスにいかせる。

<中学校第一回・全校弁論大会で優勝>

  健康とはいえぬ体で日々の労働はきつかった。学業にも励んだが、農繁期の長期欠席で公式を学ばなかった数学の遅れは致命的だった。学習書を買ってほしいなどとはとても言えない環境だった。英語だけはよかったが、担任の泉先生が数学担当だっただけに身の縮む思いがした。

 三年生の一学期に、第一回・全校弁論大会が行われた。

担任の泉先生はクラスの全員に作文を書かせた。それを参考にクラス代表を決めるという。日常の生活と父を思う気持ちを書いた。

驚いたことに、みんなの前で一番優れた作文だと先生がほめてくださった。しかし、君は弁論には向いてないからなと言い、君の作品を氷室さんに読んでもらおうと思う。いいかねという。

氷室さんはクラスの委員長であり、いじめられているときに助けてくれたことも多い。うどん製造会社の娘でもあった。

 氷室さんの弁論は堂々としていて素晴らしかった。全校での一位となった。

先生が言うには、審査ではダントツの一位だったようだ。優勝の賞状は氷山さんに、わたしには副賞の鉛筆一ダースをくださった。

   <白紙答案で叱られる>

   泉先生に教わった言葉は忘れられない。二学期の期末試験で数学の答案を白紙で提出した。答案が戻された日に「放課後、残っているように」と言われた。

 『君はどうして白紙で出したのだね』

『分からなかったからです』

 『全然わからなかったのか』

 『そうではありませんが、公式を覚えてないので解けなくて』

 『あのな、大切なことを教えておくからよく聴けよ。 全く分からなかったのなら仕方がない。しかし、君が全然わからないとは、先生は思っていないよ。大切なのは、どんな方法でもよいからやってみる。答えが間違っていても良い。どこまでやってみたか、どういう方法で答えを見つけようとしたのかを、答案のなかで示すことが何よりも大切なことなのだ。 それを示さず、投げうったように白紙で出すようなことは、君の人生で二度とやってはいけないよ。 君は大きな可能性を持っていると思っている。だからこそ、粘り強くがんばるんだぞ』

 忘れられない言葉であった。その後の人生の中で、この言葉が私を大きく変えた。

  その後、50歳のとき高校を設立した。高校受験を失敗し、行き場を失った15歳の少年たちのためにと設立したが、すべての試験は選択式ではなく記入式とするようにと教師たちに指示し、試験問題を私がチェックするようにしたものだ。記入式の試験は個人の能力がよく見えるから、生徒たちへの学習アドバイスにもいかすように心がけた。