中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

イスラエル/パレスチナ問題―その3

  フランスのテロ事件は、今後ますます大きく広がるだろうと思う。

◆ だからこそ、20年も前に書いたイスラエル/パレスチナ問題を3回に亘って
 掲載してきた。(1)~(3)まで、かなり長い記述なのでしっかり読んでくださると
 ありがたい。なぜならば、今後ますますISにおけるテロが世界中に広がるだろうし
 大きくなると思うからである。
 なによりも「根っこ」を正しく把握しておかないと、問題認識ができなくなる。、
◆ イスラム教の預言者を風刺した漫画がことの始まりだが、表現の自由にも
ほどというものがあって、何でも許されるというものではない。
 もし、日本の新聞がキリストの風刺画を何度も掲載すれば、過激なキリスト
集団に襲われることもあるだろう。
 もし、日本のどこかの新聞が、創価各界の教祖を風刺するマンガを何度も
掲載すれば、ただでは済まないだろう。
 宗教の場合は、立ち入ってはいけない部分がある。
世界で最も信者が多いイスラム教の預言者を風刺し過ぎれば、今度のような
ことが起こるのは必然である。
 普段は最高6万部を発行している週刊誌が、今度特別号として300万部、
しかも、風刺画の大量掲載とあってはまたまた事件が起こると心配していた。
 このままでいけば、キリスト教イスラムの戦争だって起こりかねない。
いやいや、ユダヤ教徒キリスト教VSイスラム教の戦も有り得るかもしれぬ。
 言論の自由とは、何でもいいとは限らない。反対の側に立てば理解できる
はずなのだ。
 でも・・・20年前にも書いたことだが・・・、イスラエルVSパレスチナ問題は永久に
仲直りできないだろう。
 えつ?キリスト教 VS イスラム教の問題じゃないの???と思う方も
いるだろう。(1)から順に(3)まで読んでいただければお分かりいただけると思う。
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フランス紙襲撃テロ事件は、2015年1月7日、風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社に覆面をした複数の武装した犯人が押し入り職員を襲撃、警官2人、編集長、風刺漫画の担当記者ら合わせて、12人が死亡させた。またユダヤ食品スーパーに立てこもるなどして射殺された事件。
201517日に発売されたシャルリー・エブドには、「イスラム過激組織を挑発するようなイラスト」が掲載されていた。この新聞は2006年、2012年にも「ムハマンド」を題材にした漫画を掲載して、イスラム団体から批判を受け、デモに発展していた。
2006年のムハマンド風刺画掲載後からシャルリー・エブド関係者は絶えず殺害すると脅迫され、警察の警護対象になっており、2011年には同紙編集部に火炎瓶が投げ込まれて全焼する事件が発生、2012年のムハンマド風刺画掲載前にはフランス政府から同紙に風刺画掲載の自粛要請が行われていた。
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イスラエルパレスチナ問題その3)  
 2ヶ月間に亘って、イスラエルパレスチナ問題を歴史から振り返り、現在にいたるまでを大急ぎで書いてきた。1948年のイスラエル建国宣言からこれまでの長い間紛争が絶えないばかりか、世界中で最も大きな問題を抱えたまま今日に至っている。どうして解決できないのかという一つの理由として、大国と言われる国々がイスラエル側に有利に働いてきたためであり、事実を伏せ、ニュース操作まで行っているところまで書き進めた。
 今回は、これまでの交渉などのいきさつにも触れてみたい。
イスラエルパレスチナ問題に日本も深く関わったことを忘れた人も、未だ生まれていなかったために知らなかった人もおおいことだろう。
「テルアビブ空港乱射事件」 
197228日、4人のパレスチナゲリラがベルギー・サベナ航空機を90人の人質と共にハイジャックし、仲間の釈放を要求した。イスラエルは特殊部隊を出動させ見事犯人を逮捕した。
 このハイジャック失敗に対してパレスチナ側からの反撃がその年の5月に起きた「テルアビブ空港乱射事件」である。もう古いことなので多くの人は忘れ去っているだろう。自慢できることでも名誉なことでもないが、この事件は岡本公三らの日本赤軍によって起こされたものである。岡本らはパレスチナ人の間では、今でも英雄とされているらしい。
ネタニヤフ首相とバラク首相
この事件は別の面から見ても興味深い。この歴代の二人のイスラエル首相は、前記ハイジャック事件の時の特殊部隊員で、この事件で共に国民的英雄になったことから後に首相の座を争い、二人とも首相になっている。先に首相になったのはネタニヤフだった。直接選挙制度に変わってから選ばれた最初の首相でもある。彼は、乱れた治安を収めるということを公約に掲げて闘い当選したが、その公約を曲がった形で実行したのだった。
多くのパレスチナ人がユダヤ人に土地を奪われた。その中でも和平合意が成立し、パレスチナ人に返すことになっていたヨルダン川西岸とガサ地区を、パレスチナ人に返すどころかこの両地域に急進派のユダヤ教徒を入植させてしまったのだ。多くのトレーラーに乗ってやってきた急進派ユダヤ教徒たちが、この両地域内にそのまま住みついてしまったのである。その後は住居を建て、今や100箇所以上の地点にユダヤ人入植地が存在している。明らかなオスロ合意違反行為である。
オスロ合意
1994イスラエルのラビン首相とパレスチナアラファト議長オスロで交わした和平合意が「オスロ合意」といわれる。この合意によって両者にノーベル賞が贈られた。後に触れるが、このオスロ合意はパレスチナ人にとって屈辱的なものである。ネタニヤフは、このオスロ合意を利用した。いや、今も尚この合意を利用しているのは明らかである。ネタニヤフの返還地へのユダヤ人入植政策は完全なオスロ合意違反であるにもかかわらず、国際世論は表面的な批判だけでそれを見逃している。返してくれるものと思っている土地にユダヤ人たちが入植してくるので、これを追い出そうとパレスチナ人が抵抗運動をするとネタニヤフは「オスロ合意で約束した過激派対策を怠っているアラファト議長の責任である」とすべてをパレスチナ側の責任に押し付けた。ネタニヤフは、火をつけては消すという「マッチポンプ」をやり、前任者のラビンが敷いた和平への道を完全に閉ざしイスラエルパレスチナ問題をより複雑にしてしまったのである。
 ネタニヤフは、199810アメリカの仲介でアラファト議長との間で「ワイリバー合意」を交わし、オスロ合意で決めた西岸地域から少しずつ撤退すると言う約束を交わした。しかし、よく考えると誰でもわかるように、これはおかしな合意である。もともとオスロ合意そのものもパレスチナ人にとっては飲みがたいほど屈辱的なものであった。その合意をイスラエルは守らないばかりか、自国民をその地域に入植させなし崩しを計っていたのである。速やかに占拠した土地から撤退しなければならないところの合意を無視する政策をとっていたのはイスラエルなのである。紛争を計画的に拡大し複雑にしたのもイスラエルだということは火を見るより明らかなことだ。それなのに、相手の弱みに付け込んで、今度は「少しずつ撤退する」という合意を押し付けた形になったのが「ワイリバー合意」である。こんな姑息なやり方でパレスチナ人に無理強いな合意を取り付けたのに、イスラエルの右派は納得しなかったためにネタニヤフは議会を解散した。199812月のことである。
そして、やがてバラクが首相に選ばれて登場する。
いつの間にかパレスチナ人が難民に?
 自分たちが3千年以上住んでいた土地を突然奪われ、その上邪魔者扱いされ、いつの間にか難民のように扱われている実態を私達は正視しなければいけないのではないだろうか。
できることならイスラエル建国の時まで遡って、せめて国土を半分ずつに分けて仲良く住んでもらいたいものだ。なぜそのようなことが出来ないのだろうか、その答えは1970年代のイスラエル首相だったゴルダ・メイアの言葉に表れている。「イスラエルの国境は、地図の上に引かれた線ではない。ユダヤ民族が住みついたところにある」 と、彼は言ってのけたのである。この姿勢が今もイスラエルの姿勢の中に生きているように感じる。
国連決議
この記事を書きながら、私は何度もイスラエル側の言い分にも耳を傾けようとした。しかし、調べれば調べるほど、イスラエル側が正しいと思えるものが見つからない。その証拠に国連においては何度も「イスラエルの占領地区からの撤退」が決議されているがイスラエルはこれを全く無視する態度を変えていない。また、アメリカはこれまでにイラクのクゥエート侵攻に対しても「国連決議」を強引に導き出し、その決議を拠り所に攻撃を行い、日本はその攻撃費用を三兆円も負担したものの「日本は何の功績もしていない」と言われた事は記憶に新しい。しかし、どういうわけか、イスラエルに対しては何度も国連決議が行われているにもかかわらずアメリカはこれを無視しているのである。911事件がアメリカに対して行われた伏線がここにもあるということを明記しておこう。言い換えれば、日本政府もパレスチナの人たちには冷たかったと言うことだろうか。世界戦略上では公平を保つことは難しいようだ。国際金融を抑えているユダヤイスラエル)や、一番の貿易相手であり防衛上は核の傘であるアメリカの政策を表面だって非難できないし、パレスチナを非難することもアラブ諸国を敵に回して大切な石油資源を失いかねない。これが日本の立場である。私も個人の資格では公平なことは書けても、日本の首相となればうかつなことがいえなくなるだろうと思う。
歴史を紐解けば
 少しだけ歴史を振り返れば第1次大戦によって英国がこの地を統治したことに始まると書いた。英国が何度も相手によって空手形を発行したことが混乱を深める要素になっている。「マクマホン書簡」(1915年当時の英国のエジプト高等弁務官)によれば、この地はアラブ人の土地であり、「サイクス・ピコ秘密条約」(1916年、英国の中東代表マ-ク・サイクスとシリアのフランス総領事フランソワ・ジョルジュ・ピコとロシア代表の秘密会議で、オスマントルコの領土を3カ国で分けることを合意し、英国がヨルダン、イラクの一部、パレスチナ地区を領土とするという条約)によれば英国の領土になり、「パルフォア宣言」(1917年、前記の「サイクス・ピコ秘密条約」を楯に、英国外務大臣パルフォアが「イギリス政府はユダヤ人のための国家をパレスチナに建設することに賛同し、最善の努力をする」と言う書簡をユダヤ人であり世界一の巨大財閥であるウオルター・ロスチャイルド卿宛てに出した)によればユダヤ人の土地となるという奇妙な図式が出来上がったのである。
中国でも・・
 ついでだから書いておくが、その当時中国を巡って同じようなことが行われていた。ロシア、英国、フランス、アメリカなどが中国を分割して自分の領土とする話し合いが具体的に行われていたのである。日本と中国との間の戦争は、そのような背景の中で起こったことである。あの当時、日本が中国を抑えていなければ、中国はこれら諸国によって分割されていただろう。歴史は深く詳しく、平等に見るべきである。
英国とアメリカの戦略
 1917年の「パルフォア宣言」によって、1921年からこの土地に世界中のユダヤ民族の大量移住が起こり、パレスチナ人の追い出しが行われたことが紛争の始まりである。
 この1921年の7月には、英国はサミュエルを初代高等弁務官として任命したが、彼もまたシェル石油支配者一族のユダヤ人であった。当然ユダヤ人に有利な植民地政策を推し進めた。イラクの一部まで領土とした英国は、イラクのモスールに油田を掘り当て海岸のあるシリアまでパイプラインを1934年に設置を完了した。このような石油独占を計る英国の動きをけん制したアメリカはロックフェラーなどによる反撃体制を敷き、着々と石油確保のための外交を強化していくのである。
 もちろん、自分たちの土地を自由放題にしているこれらの行為にパレスチナの人々が黙っていたわけではない。後に1990年ヨルダン王妃となって美女の誉れ高い王妃ラーニャの先祖は、パレスチナ人を率いて反乱を起こしたのである。しかし、ユダヤ人戦闘部隊は各地でパレスチナ人虐殺を繰り返し、ついには前述のようにアメリカとロシアの強引な圧力のもと国連において「分割案」が可決され、イスラエルは勝手に「建国宣言」をしてしまう。
これに対して国連の安保理事会においては何度も「イスラエル非難決議」が出されるが、アメリカは拒否権を発動してことごとく葬ってしまったのである。
 911事件の根は深く、今に始まったことではない。