中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(72)

 最後まで残ったのは、頑として債権放棄に応じなかった材木店
だった。現在もあるのかどうか調べていないが、忘れもしない
「田中木材」だった。1か月間の交渉でも彼はこちらの願いに応
じようとはしなかった。彼の言い分はこうだった。自殺した人に
は悪いけど、彼はこれまでの取引で、一度も誠意を見せたことがない。
それに5千万円と言う金額は半端な金額ではないから債権放棄など
出来るわけがないだろう・・と。全くその通りだった。
 私は「事情はよくわかりました。しかし、この店に来るのも今日
が最後です」と挨拶をすると、君はあの家とはどういう関係なのだ
。どうしてここまでしんどいことを引き受けるのだ。暴力団との交
渉は上手く行っているのかと聞く。
 組長との交渉は終わりましたと言うと、どんな条件で話し合いが
収まったのかと聞くので、ありのままを語ったら驚いておられた。
そして実は、この1か月間自分の仕事が出来ない有様だったが、
取引先から不渡り手形をもらい、あすには私が不渡りを出す羽目
になってしまったので、このお店に伺うのも今日が最後です、
挨拶した。材木店の社長は、そこまで人のためにやれる人は珍しい
、失礼だが、あなたはこれまで何をして来られたのか、と問う。
私の経歴をお話しすると、「わしとよく似た経歴や。そうか、
わかった! あんたに免じて債権放棄しようじゃないか」と言って
下さった。約1時間、材木店社長との思いで深いひと時だった。
男と男の気持ちよく、潔い話し合いは今でも強く心に残っている。
 さてその後が大変だった。すべてを解決した翌日から自分のことで
目の回る忙しさとなった。(株)中野手芸は手を広げ過ぎたのか、
結果的には倒産してしまったが、その前に私が貰っていた手形がすべ
て不渡りとなり、私が資金不足で、出していた手形を不渡りとせざる
を言えないことになった。
 明日、不渡りを出すというその日、一番取引額が大きい大阪の生地
問屋に電話をかけた。
「困ったらなんでも気軽に相談してや」と優しい社長の言葉をいつも
もらっていたから、社長に事情を話した。「まだ誰にも、そのことを
いってないのやな?わかった、それなら今からそっちにいくさかい」
と電話を切った。
 未だまだアマちゃんの私は、社長がどんな手助けをしてくれるのか
と首を長くして待った。1時間余りして、トラックが店の前に着き、
あっという間に在庫の商品も生地も積んで持ち去ってしまった。
それは、電光石火という言うべき素早さで、驚いているうちに、こと
が終わっていた。社長が「まかしておき」と言っていたのは、こう
いうことだったのだ。大阪商人の常套手段だと分かったのは、その
あとのことだった。
 不渡りを出したことを知った債権者は、店に何も残ってないのを
なじり、計画的ではないかと疑いをかけられた。もちろん、これは
問屋さんの社長が私を甘く見た上での行動だったが、結果として私
の完勝となった。社長の強引さのお陰で、全部の債権を放棄しても
らえることになったからである。自慢ではないが、この手の争いに
これまで私は一度も負けたことはない。絶対に勝つという信念が私
にはある。それは相手が法を無視した時に限るが、15歳から六法
全書を手放さないで勉強し続けた私の方に勝ち目があるのは道理
だった。 何事もしっかり学ぶことは、自分を助けることにもなる
一つの例かもしれない。