中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(59)

「仕事がない」
 ドルショックで仕事が完全に止まってしまった。
お盆明けに従業員が出勤してきても、新たな仕事が入らない
からどうしようもない。かといって休ませると他の会社に移って
しまうかもしれない。熟練工を持っていないと新たな仕事にも備
えられない。
給料はパーツごとに単価を決めて出来高によって決められるが、
当時としては、かなりの高給であったためにおいそれとは他社に
取られる心配はなかったが、出来高給だけに仕事がないと給料が
ないと言うことになってしまう。とにかく仕事がなくても給料を
支払うことを約束した。
 神戸の会社で、じっと仕事を待つというあてもないない日々が続
いてしんどかった。約2カ月以上も、こんな状態が続いた後で、別の
会社から仕事を取ることができた。最初の大関ゴムから数えて3社目
だった。仕事の安定と従業員の多さから、なるべく大きな企業を選ん
でいた。単価は安かったが、仕事量は多いのが魅力だ。この会社とは
順調な歳月を重ね、一時の先が見えない状態から安定へと向かった。
このように書くと簡単だったようだが、2か月以上も仕事がなかった
時には、給料の支払い、借金の支払いなどに追われて辛い日々だった。
 給料をもらう立場と渡す立場の違いは大きい。その違いが分からな
ければ経営者にはなれないし、リーダーにもなれない。経営者が受け
る重圧は様々だが、何よりも資金調達には神経をすり減らすものだ。
 私のように、孤独で生きて来たものには、最初から金がない。
1円もないということも珍しくなかった。その上、祖母から「金を稼
ごうと思うな」と厳しく諭されたので、どんな手を使っても金を稼ご
うと言う気持ちにはなれない。
 ドルショックで仕事がなかった時、同じ下請けだった他の会社だ
けが、僅かしかない仕事をもらっていた。どうして彼の会社だけが
もらえるのか分からなかったが、ある日それが分かった。彼は、会社
の外注担当の課長を海釣りに招待し、麻雀接待などを日常的にしてい
たのだった。私はと言うと、それが出来ない。何しろ40歳までは酒
も飲まなかったから、招待とか接待などは苦手だった。仕事の内容が
よく、納期をきっちり守ることが何よりだと考えていたので、接待に
明けくれるなどの言う芸当はできない性格だ。今の家内に「あなたの
ような性格で、これまで良くやってこれたわね」と言われる。中元や
歳暮なども苦手だ。後に高校を作った時に、教師が歳暮を持ってきた
ことがある。私は「こう言うものを持ってくると言うことは、ちゃん
と仕事をしていなかったということだ」と突き返したことがある。
 盆暮れの贈物・・それも世の慣わしだが、私にはできない。真面目
に、きっちりと生きる。お世辞をするより、人のために尽くせと言う
のが私の信条だ。困った性格と言われそうだが仕方がない。
 仕事も順調で何不自由しなくなったはずなのだが、別の問題が
あった。妊娠中の家内から仕事を遠ざけようとするのだが、家事
よりも仕事好きの彼女は私の願いを聞かない。ある日、産婆さんが
私に「先日バイクに乗っているのを見掛けたけど、やめさせないと
流産するよ」と。何度言っても聞く耳を持たない。遂にその日が
やってきた。待ち望んだ男子(それも双子だった)が流産してし
まったのだ。それが、きっかけとなって夫婦の不和が訪れる。