中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

不況の時代をどう生き抜くか(8)

不況の時代をどう生き抜くか(8)

今は、百年に一度の大不況だ。
だから、百年に一度の大チャンスだ。
そんな意味のことをこれまで書いてきた。
これまでの記事を読まれた方はどう思ったのだろうか。
それを信じてこれからを生きてみようと思っただろうか。
人生そんな甘くないよと思ったのだろうか。

俺には、そんな才覚がないとあきらめたのだろうか。
私の向かって「あなたはチャンスに恵まれただけ」だと思ったのだろうか。
読者の一人ひとり受け止め方が違うだろうと思う。
それが、人間だからだ。
そこで、今回の第8回目を読んで、「俺にはできない」と思った人は、続きを
読んでも得るところが少ないかもしれない。
だが、あなたがあきらめる前に、私のこれまでの人生を簡単に書いておこうと思う。

これを読んで、私にはできないと、簡単にあきらめた人は、今回でお別れです。
人生は楽な方が良い。果報は寝て待とう。努力も嫌い、読書も嫌い、コミュニケーション
なんてまっぴらだ。そう思う人は、私の話に耳を傾けないだろう。
でも、まあもう一度この後を読んでほしい。

私の簡単な履歴。
歳は、70歳を超えたおじいさん。
23歳で結婚。
53歳で再婚。
孫11人。

学歴は、正規には中学校卒。そのほかは、牧師になろうと「神学校」(6年制)に入学したが
1年で中退。どうして中退したのか。16歳から働きに出て、コツコツ稼いだお金を
学費に充てて・・などと甘い考えだったからだ当時の住み込み店員の月給などと言う
ものは、今では考えられないほどの微々たるもので、小遣い程度と言ってよい。
それを一生懸命貯めて、念願の進学をと望んだのが神学校だった。牧師の特別推薦で
入学が認められた上、学費免除という扱いだったが、学費が免除されても、生きていく
ためには金がかかる。所詮は夢のまた夢で終わった。
しかし、ここで学んだことは後々多いに活きてきた。説教学の授業で「真理を曲げないで
いかに優しく説明し話せることができるか」を教わった。これは今も活き続けている。
ピアノを習ったのもこのころだ。今はピアノなんて弾けない、でも、数少ないピアノを
学生たちが早朝から順を争って練習したあの思い出は懐かしく、そして活きている。

神学校を中退した後に、働く場所を求めてさまようことになる。今のようにアルバイト
派遣社員などない時代であり、仕事がなかった。このさまよった時代に、私のそれからの
生きざまの原点がある。後で触れることになる高校を設立したあとで、マスコミは「どうして
こんなに難しい学校を作ろうと思ったのか」と何度も問われた。
一言で説明できないので「教育の原点を求めて」と言う本の中でその頃のことに触れて
いる。この話は長くなるので、このシリーズには書かない。
「教育の原点を求めて」は電子出版しているので、希望者には添付で送ります。

やってきた仕事。
21歳までに5種、7か所、すべて住み込みで働く(いわゆる丁稚奉公)。
やったことのない人には、丁稚奉公の辛さなど分かるはずもないが、しんどいものだ。

24歳から、完全自立。会社法人、自営業などの経理担当として30社(店)以上の
経理を見る。周囲から先生と呼ばれた最初だった。
経理を教えてもらったわけではない。

26歳、縁あって「養鶏業」をやることになる。育雛器から鶏舎など自分で全部を作る。
養鶏業の師匠はいない。経理担当と並行での仕事だった。

27歳、立ち退きを迫れら、やむなく別の場所への移動を余儀なくされる。
そのために、自力で家を建てる計画を進め、自宅20坪と、千羽の鶏舎を一人で建てる。
もちろん大工作業など初めてだったが、基礎から全部を自力でやり遂げ、これが自信と
なって、その後の私を作ることになる。
家を建てるときの資金はゼロに近い。材木屋さんに迷惑をかけたが、その借金をきちんと
返済したことが次へのステップにつながった。

30歳、「30で立つ」という言葉があるが、何を立たせるのか・・??。
縫製業を思い立つが、動力ミシンを使ったこともなければ、仕事もない。その上、人手の
確保もできていない。
どうやって、仕事を見つけ、ミシンを集め、従業員を集めたか、長い物語になるので、
ここでは省略する。ヒントは、アイディアと行動力だけだ。

31歳、せっかく借りて工場に改造したものが台風で一夜にしてつぶされる。
厳しい再建への道のりも、ここでは省略するが、死に物狂いでやったというだけ書いておこう。
やがて、50人の従業員をもつ縫製業となり、町の商工会工場部会の副会長に選ばれる。

35歳、いろいろあって、古い女房と別れることになった。私が浮気をしたのが原因だから
すべて自分が悪い。工場と実印は家内に渡し、100万円を持って家を出る。

神戸市、中央区下山手通りと鯉川筋の角に「デザインルーム・ナカハラ」を作り、婦人服の
オーダー店の経営をはじめる。
翌年、元町通り3丁目に店を移転する。
婦人服のオーダーと簡単に言うけれど、採寸、デザイン、パターン作り、裁断、仮縫い、
縫製など専門的技術が必要だ。縫製工場の動力ミシン技術を取得していても、何の役にも立た
ないような専門職である。
だが、私には師匠はいない。何より、難しいのは製図と裁断である。だが、私はだれにも学んで
いない。
40歳、神戸フアッション・ソサエティー(K・F・S)という大きな組織の会長になり6期・
6年務めた。
長くなった・・この続きは(9)に書こう。