中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(109)私を守ってくれたのはだれなのか

    《TV討論会での教師の仮面発言》

公立校の校門圧死事件の後、いろんなテレビ番組でこの問題が取り上げられていました。

あるテレビ放送局が夜を徹してこの問題の討論会を開いた時でした。その番組にはいろんな分野の方が出演しておられましたが、どこかの高校の教諭も何名か出演しておられました。

朝方になって番組もそろそろまとめに入る頃、一人の教諭が次のように発言しました。

「要は、教師は教師を演じ、生徒は生徒を演じることが大切なのです」

 その番組の出演者の多くは、このきれいな響きの発言にうなずいていましたが。司会者が、

「もう少し具体的におっしゃっていただけませんか。教師を演じる、生徒を演じるというのはどのようなことですか」

その教諭は答えました。

「学校は、教師と生徒との上下関係が大切なのです。それが崩れるといろんな問題が発生するようになります。ですから、教師は教師らしく権威を演じ、生徒は生徒らしく従順を演じればいいのです」

私は、この発言を聞いてがっかりしました。  この教諭は昨夜からの討論会でいい話をしていたのです。 しかし、あれは何だったのでしょう。 この権威発言で、この教諭の仮面がはがされたように思います。 教師の権威は演じるものではないのです。

そのような権威の下で教育をしようとするから生徒を裁いてしまうのです。分かったようなことを言っていたが、本当はよく分かっていなかったということでしょう。

仮面の下にあるものを隠したままで、表面的に体制に合わせているだけの人は、苦難や危険にさらされた時に仮面の下の本性をあらわしてしまうものです。

      《一年生の合宿と、その後の研修会》

ある年、一年生の合宿を学期末の七月に行ないました。場所は鉢伏高原の大自然の中でした。 バスで現地に着いて宿舎に行く途中、爆竹が鳴りました。

迎えの方が歓迎の意味で鳴らして下さったわけではありません。生徒が鳴らしたのです。

 二泊三日のこの合宿で、爆竹を鳴らす、宿舎の障子や壁などを破る、喫煙する、指定した以外のバスに乗ろうとして注意され、暴言を吐きバスのバンパーを蹴る、友人とケンカをする、スケジュールに従わない、自動販売機で酒を買ったらしい、などの問題行為が、延べ12名の生徒によって行われました。

 合宿に参加した生徒は130名でした。

合宿から帰って二日間は、そのような行為をした生徒に対して指導をし、その後三日間にわたって、 教師たちによる、この合宿に関する反省会と研修会が持たれました。

ふだん、どんなに「生徒の善と可能性を信じる」という理念を理解しているつもりでも、生徒の一つの行為を通して討議すると、まだまだ理解が進んでいないことが分かるものです。

この時のように、多くの問題行動を目のあたりにした時に研修会を持つことは、大きな意義があるのです。

ふだんは、ほとんどの生生は問題行為を目のあたりにすることはまれで、生活指導の先生たちだけが生徒の実態を把握しているからです。

特に、いつもはおとなしい予科を中心とした長田校舎の生徒も、この年初めて合同で合宿をしましたので、校内で、彼らだけしか知らない教師たちは、やんちゃ生徒達の行動にパニックに陥ったようでした。

どんな時にでも、教師が冷静に、しかも理念に基づいた行動を取ることができれば何の心配もなかったのですが、生徒を信じるというたった一つのことが、できない教師がいるという事実を書いています。

研修会の席上では、

「初めて爆竹が鳴った時、どうして全員のポケット検査をしなかったのですか。もしそうしていれば爆竹騒ぎはなかったと思います」 という発言があり、一時は、  

「そうだ、本当だ」という空気が多くの教師の間に流れました。その時、最も若い岩永先生が、

「この三日間の討議のなかで、どうして生徒のしたことだけが取り上げられるのでしょう? あの時ポケット検査をしなかったとか、あの時どうしてこうなったのかとか、評論家のようなことばかり言う人が多いのはどうしてなのでしょうか? その評論している人もその現場にいたじゃないですか? その時、その人はどのように動いたのですか?この合宿は全員で力を合わせてやるものなのに、どうして人を評論するのですか?評論しないで、その時あなたは何をなしえたかが問われるべきです。 今度の合宿が失敗だとしたら、その責任は教師の側にあると思います。 われわれがどんな準備をし、どれだけ生徒と話し合えていたか、それが試されたのだと思います。生徒の誰かが何をしたかと言うことを問題にするより、 教師がその時に何をなしえたかを議論すべきなのではないでしょうか?」

  岩永先生は合宿から帰ってからの二日間の生徒指導で、彼らが以前に増して良い顔になってきているのを知っていましたから、問題のとらえ方が違っていたのでしょう。

生徒指導などで生徒と触れ合い、彼らが大きく変わっていく様子を経験したことのない教師は、表面的に見てしまいかねない危険があります。

私たち神戸暁星学園の強みは、問題にぶつかった時、迷った時、困難な時に、理念に立ち帰ることができることにあります。 多数に頼らず、理念に基づいて判断しようとする姿勢が失われない限り、この学園は生徒のための学園であり続けることができます。

若い岩永先生が、この合宿で大きく成長したことは、とても嬉しいことだった。 彼の発言は合宿というものがなぜ行われているのかを熟知している証拠でもあるのです。

 一年生の一学期の終わりというのは、まだまだ中学校当時からのセンコーに対する思いが強く残っている時期です。 この時期に合宿をして思い切り暴れても、二学期が始まる頃には大きく成長した姿になるということはこれまでの経験を通して理解が深まっている教師が増えてきていたということでしょうか。