中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(54)私を守ってくれたのはだれなのか

 《 毎日まいにち、一人での大工仕事 》

梅雨の長雨の中でも合羽を着て、ノミを振るい続けた。家を建てる作業の中で、ノミと、鉋を研ぐ術をすべて心得た。包丁を研ぐよりはずっと難しい。来る日も来る日も一人ぼっちで日陰のない場所で働いた。子供のころよりよく知っている近所のおじさんが

『ういちゃん、よくやるのう、こんなところで一人でいたら、キツネか狸にやられるぞ』

と冷やかすように声をかけてくれた。

庵の坂を下りたところの、三百坪の広いところで家を建てている私に声をかける人は少ない。近所の人が通るのはこの道しかないのだが、挨拶の言葉を交わしたのは、今日のおじさんだけだった。近所の人は、丘の上の(あとつぎの孫)が戻ってきて、どうなるのかと、気をもんでいるのかもしれないが、わたしは、丘の上の家とは、関係なく、仕方なく、ここへ来ただけなのだが、周囲は気をもんでいたようだ。

もちろん、仕事に夢中で、道に背を向けて鑿を打ち込んでいるので、声掛けもできなかったのかもしれないが。

 

十月に「棟上げ式」を行うと決め近在にその日を知らせた。この地域では棟上げ式には「餅撒き」が行われるのが恒例だった。自分で廃材を使って設計し、墨を打ち、のこぎりで引き、金槌と鑿で刻んだものが、本番にちゃんと立ち上がるのかと、心配だ。そして、餅を撒く手配などできそうでなかった。

丘の上の奥山家のあとを継いでいる栄治さんが、当日は手伝いにくるし、家で餅をついて持ってくるとから言ってくれた。近所の人が手伝いに来るのは恒例のことだが、餅をついて持ってきてくれるので、本格的に餅撒きもやれるので何よりだ。棟が上がるのかが一番の心配だが、自信はある。

棟あげ当日、柱の下になる敷石の水準を水盛器で再確認した。コンクリートで基礎が作ってある場合は、柱の長さが同じでいいが、三十センチほどの敷石は、半分を土の中に埋めてあるが、高さが違うので、水準を計り、それを基準に、一本ずつの柱の長さを決めて切らなければならない。近所の人たちが見ている前で、これらの作業を行った。感心してくれる人、大丈夫なのかと、つぶやく人もいる。

細かく書くとむつかしいので省いて書いているが、桁と梁がしっかり結び付き、小屋梁の上の穴に小屋束を差し込みその上に棟木を載せて完了だ。餅まきのための足場を作り上に上がると多少の揺れがある。

『おいおい、これで大丈夫かよ、明日になったら倒れているんじゃないか』と栄治さんが言う。

『ゲンの悪いことは言わないでください。ちゃんと建てて見せますから』と言っておいた。

一番の問題はここからだった。ここまでは、廃材利用でやってきたが、ここからはすべてに新しい木材を使わないと、作れない。

街中で製材所を営む高部製材所へ行って、わが家の地図を書き注文すべき材料を記入して配達をたのんできた。車は池の堤までしか来られないから、そこからは、いっしょに担いで坂下まで運ぶ。なんども注文しては、運んでもらった。

古材の中に入っていた窓と敷居が二組ある。窓をはめようとして、どの高さに敷居を入れればよいのかさえわからない。もちろん敷居の入れ方もわからない。ほかの家を三軒回って高さを確認して北と南の二か所に窓を入れて家らしくなった。次は床である。床の構造を調べて、床束、根太、大引きを作り、コンパネを張って、畳を入れられるようにした。大問題は天井だった。住まいは半分だけだが、天井がなくては落ち着かない。考えた挙句に釣り天井にしようと思い、うまく作れた。

居間が窮屈なので、西側におだれを出し広くし、その部分をキッチンとした。流し台は、既成のタイル張りを使った。流し台の下の扉も作り、なんとか形になってきたが、風呂がない。

餌置き場用の一部を風呂場にしに北の部分に焚口を作り、入浴は家の中から入れる設計にしたが、風呂は上手に作らないと、うまく火が回らないよと脅されたが、なんとか様になった。その隣に便所を作り一応完成した。こう書くと、なにごとも簡単そうだが、修繕ではなく、一からすべてを始めるのだから、窓の敷居入れ、床作り、天井作り、風呂作りなど、すべてが、何もないところから作り出すというのは並大抵ではない。

現在のように、いろんな建築材や金具類や道具が一か所で揃えられるコーナンのような店のない時代のはなしなのだ。わたしが27歳で独りで建ち上げた家だった。

なにもかも独りでと言いたいが屋根だけは職人に依頼した。南海地震の経験をもとに屋根が軽いと家が倒れないことも学習していたので、長尺のカラートタンを張ってもらった。

もちろんトタンの音が響かないようにと、下地にしっかり板を張っておいた。

「建築願い」も「設計図」も自分で描き届けて、「建築認可」を得ていたが、「完成届け」も提出し、「登記」も済ませた。棟上げ式以外は、ぜんぶを自分でやったのだと嬉しくなった。間もなく二十七歳の誕生日が来る。

家はできたが、鶏舎はまだだった。鶏舎は百二十坪以上のものを設計し、わずか一か月で完成させ、ケージを入れる棚を作り、ケージを差し入れると鶏の移動ができる。鶏を移動させ、古い鶏舎の廃棄処分を依頼して、年初から始めた移転計画がほぼ完成し、正木さんにも報告をして、喜んでいただいた。

これだけ一生懸命に働き続けたのは、生まれて初めてであろうと、自分をほめた。体も心も、疲れ果てていた。今年の8ヶ月ほどは、朝から日暮れまで、ほとんど外で働いた。家では、柱一本ずつの設計図を、夜を徹して書いていた。

妻は、二人の子育てをしながら、鶏の世話をして、大変だっただろう。餌と水を与えるのは簡単だが、三日に一度は鶏糞を取ってむしろで乾燥させるのは、しんどい以上に臭くて辛いのだ。しかし、鶏糞は商品となるので粗末にはできない。

一番気にしていた鶏の移動は牛車に乗せてスムーズに進み、ひなの育成も順調だった。気になっていた風呂も問題はなかった。この数年前から、町の水道事業が始まっていて、井戸に頼らないで水が使えるようになっていて水問題に懸念がなかった。ずっと気を張ってやってきたので、どっと疲れがたまっているようで体が重く、へとへとの状態だった。

気になっていることがすべて済み、ゆっくりとした気持ちになっていた頃に、高部さんが集金に来られた。どれだけ木材を買ったかも計算できてなかった。必要なものは、いるのだからと注文していたのだった。高部さんが

『いい家が出来ましたね。あなたが一人で建ったって聞きましたが本当ですか』

『そうなんです、しんどかったけど、何とかここまでできました、ありがとうございます』

『そりゃよかった。今日は集金に伺いました。これが請求書です』

請求金額を見て驚いたが、こんなに使ったのだなと、わかる。分かるが、金がない。

『申し訳ありませんが、お金がないので、こんな古材を作って建てました。お金は工面しますので、もう少しお待ちいただけませんか』

『どこで工面するのか知らんけど、払えるんだろうな』突然に高飛車になった。

『もちろん、ちゃんとお払いします』

『あのな、人を馬鹿にしちゃいけませんよ』というなり、玄関のまっさらの畳の上に靴を履いたままの足をのせて

『金もないのに家を建てた。払えませんで、すむと思うのかよ』高部さんは、製材で片目を失ったのだろう、眼帯をかけ、すごむと形相が怖い。

丁寧に応対するうち、手形でお支払いをすることで決着した。そのことで二年後にまたご縁ができるとは、思いもよらなかった。二年後に家まで来られて、

『これだけのものを一人で建てたという根性は大した人だと、おもったが、きっちり手形を落としてくれたのには、感心している。もし今後、なにか困ったことがあれば、俺のところに来てくれ、きっと役立ってやるから』と、わざわざ言いに来てくださったのだ。人と人のつながりを感じた時だった。

順調に羽数も増えていき、計画的には順調と言えた。しかし、養鶏業界は様変わりし始め、1万羽規模のものが全国的に広がり始め、鶏卵価格が上がらない。あと十年もすれば十万羽規模になるだろうと、言われていた。多数養鶏が進むと、われわれは、零細養鶏の立場にさらされ、赤字経営になることは、火を見るよりも明らかだった。物価の優等生と言われる鶏卵だが、養鶏は奥の深いものなのだ。