中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(12)私を私を守ってくれたのはだれなのか 

<私を巡る問題が発生>

 当時、祖母は息子むすめたち四人の子育て中でもあったので、それを考えると祖母に私を預けるのは荷が重かろう、いまは無理だと判断したのだろう。

父のすぐ下の妹の優子叔母が「しばらくは、私が育てましょう」と引き受けてくれたようだ。

優子叔母は、父の二歳下だった。以前に天下茶屋に住んでいたことがあり、わたしが「天下茶屋のおばちゃん」と母以上に懐いていたらしい。

叔母には主人がいたが、二人のあいだには子供がいなかった。どういう話になったのか知る由もなく、叔母のもとに引き取られた。

「テンガチャヤのおばちゃん」と、呼んでいたのが、ひと月もしないうちに、お母ちゃんと呼ぶようになっていたという。

長い人生の中で、愛されたと実感した時期だったろうと、思っている。わずか三年間半であっても、愛された充実感は生涯忘れないようで、心にふかく刻まれて私を支え続けているのだ。

  叔母は、ぼくが誕生した松通りの産科医院に近い、梅南通りに住んでいた。

通りに面したところに大きな運送会社があり、その隣が叔母の家だった。叔母の夫が、その運送会社で働いていて、社では主要な役回りだったようだ。おじの縁で父も同じ職場で働いていた時期があったように思う。

 母ちゃんが作ってくれる、朝の味噌汁が大好きでわすれられない。大根とかナスなどなど、旬の野菜と薄あげの味噌汁に、必ず卵がちらされていた。それからずっと味噌汁3杯目を欲しがる習慣になってしまった。

 母ちゃんのご主人は「ハーさん」とみんなから呼ばれていた。まじめな人で、毎朝5時になると、小さな仏壇に向かって読経を始めるのだ。般若心経を熱心に唱える。その読経の声でいつも目覚め、薄目を開けてみるとハーさんの真剣な読経の姿が見えたが、ぼくはそのまま眠っていた。

  職場でもみんなから敬われているらしく、だれもがハーさんには丁寧に接しているように思えた。酒も飲まない人だったが、夜になるとときおり博打に行くようで、お母ちゃんとしばしばもめていた。

『途中まで勝ってたんやけどナ~負けてしもた』

『なんで、勝っているときに帰ってこんかったんよ』

『勝ち逃げみたいにおもわれるからな、できへんよ』

『こんど、私が付いて行ったる。勝っているときに帰ってこよう』

子供が聞いていても、あほらしい、こんな会話をなんどか聞いて、ハーさんの別の面を見たような気がした。

 家の裏口から外に出ると、直ぐそばに馬小屋がみえる。馬が八頭それぞれの囲みの中で一斉にこちらを見た。馬をこんなに近くでみるのははじめてだったので、大きさに圧倒される。顔がでっかい、口を大きく開けると呑み込まれるかとおそれて後退りした。ひひひーんと、馬が啼いた。まるで馬が笑っているような顔だった。

 ハーさんが『ちょっとなででやり』という。こわいけど馬の顔をさわる。ツルツルとしていて気持ちがよい。馬がやさしそうにじっとこちらを見つめてくれる。その日から馬たちとは友だちになり、朝起きると真っ先に、馬たちに挨拶に行くようになった。

 ハーさんがちょっと連れて行ってやろうかと声をかけてくれた。

当時の運送会社というのは、おおくは荷馬車で物品を運ぶ仕事だった。

大阪には、市電も車も走っていたが、当時は圧倒的に荷馬車が多かった。大阪も東京も荷馬車の馬たちが落とす馬糞が、路上にたくさん転がっていたとは、最近の人たちには信じられないだろう。

 二歳の頃には、近くに地下鉄の駅ができて便利になっていた。

梅田から大国町を経て、天王寺までの地下鉄路線は前からあったが、大国町から花園駅まで路線が延長されたことで難波、梅田、天王寺という大繁華街がわずかの時間で行けるようになったのだ。

市電と言われた路上電車は、網の目のように市内を走っていた。荷馬車は市電が走っているレール部分も走れる。パカパカという馬の蹄の音がリズムとなり、そよ風を感じながら市内を走る気分は、傍目とは異なり爽快であった。

ハーさんには三度ほど荷馬車に乗せてもらって、市中を蹄のリズムと共に闊歩したおもいでがあり、懐かしい。 

 家の近くを汐見橋駅発の、南海電車高野線が走っている。踏み切りには小さな小屋があって、一人のおじさんが座っている。

 入っていくと、やさしく迎えられたので、日課のようにおじさんの許に通ったものだ。

時間表を厚紙に貼ったものが見やすい場所にぶら下げられている。電車が通過する時刻になるとおじさんが緊張して立ち上がり、周囲に気を配りながら遮断機を降ろす。

当時は電車の本数も少なくて、子供の相手をする余裕があったのだろうと思う。

おじさんには、字を教えてもらったり、お菓子をいただいたり、おもしろい話をたくさん聞かせてもらった。

 子供のころに聞いた童話はすべておじさんからきいたものばかりで、他の人からは聞いていないと思う。

 ほぼ毎日のように、踏切小屋で五時間は過ごしたように思う。私の家庭教師役が踏切番のおじさんだったといってよい。

 わたしのために童話本をもってきていて、おじさんに仕事があるときは、これを読んどきと手渡される。私がいた頃には、踏切番の人が変わることはなかったので、おじさんとの貴重な二年間だったとおもえるし、この出会いがなかったら、なにも知らないで小学校入学を迎えたかもしれない。

  地下鉄の花園駅へ行く道すがらの大きく長い商店街へ、母ちゃんと連れだって買い物に行くと、ひょいと衣料品店に入る。

 母ちゃんは、その服を気に入ったのか、なんども値切っていて、もう買うのかなと見上げていると、『ほな、また』といって店を出る。

値切っている間、長いこと待たされたのにと愚痴ると、

『ちょっと気にくわないところがあったさかい』という。 その店の斜向いにパン屋さんがあった。

 クリームパンが大好きなのを知っているので買ってくれる。買ってくれないと道にしゃがみ込んで、テコでも動かないことをお母ちゃんは熟知しているからだ。クリームがたっぷり入っている今どきのパンとは違って、パンの表面にクリームで渦が描かれている程度のものだが、そんなぜいたくなパンを食べられたのは都会だけだった。