中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

阿川さん「考えるハダカ」で、思うこと

あの阿川佐和子さんの「空耳アワワ」という本を読んでいますが、その中に

「考えるハダカ」という項があります。それをここですべてご紹介したうえで、裸について考えてみたいし、みなさんのお考えも聞いてみたいのです。

 『珍しく母と旅をした。おそらく数十年ぶり思われるが、大浴場なるところで一緒にお風呂に入った。

 脱衣所に着くなり、一時の躊躇もなくパッパカ服を脱ぎ始め私の横で、母がもじもじと立ちすくみ、一言、

 「なんだか、恥ずかしい」

 驚いたもんだ。服を脱ぐのを逡巡している。別に大通りで脱ごうというわけではない。れきっとした脱衣場という密室。服を脱ぐことを目的とした場所である。いやらしいおじさんの目も大きな窓もカメラもない。確かに娘のほかに見知らぬ女性が数人いらっしゃるけれど、みなさんの目的はお風呂である。しかも、すでにおぬぎになっていらっしゃる。お互い様だから、さほど気にとめることもなかろう。

 だいいち、母は私よりずっと昔から銭湯や共同浴場の経験があるはずだ。まさかこれが初体験というわけではない。にもかかわらず、「恥ずかしいよん」などと言う。娘はたじろいだ。そして同時に感動した。なるほど私はこういう恥じらいの精神をすっかり忘れていたものだと、反省した次第である。

 オンナの恥じらい問題については以前にも書いた。オンナたるもの産婦人科で、一度あの台に座ったら、恥じらいと決別してしまうのではないかという仮説を立てた覚えがある。しかし四人の子供を産んだ経験のある母が、こんな大和なでしこ状態であったとは、知らなかった。

 なんとか照れつつも母は無事に服を脱ぎ、私のあとから湯船に入ってきてさらにのたもうた。

 「いまどき、タオルを当てて入って来る人なんて、いないのね」

 そういえば、昔はだれもが銭湯で、体の前にタオルを当て、腰をかがめ、いとも恥ずかしそうにコソコソと浴場に入ってきたもんだ。風呂を上がるときだって、なんだかもう、死んでも他人に見せませんという意気込みで、伊賀の忍者のごとくひそやかに、湯気にまぎれて出て行った。

 (ここから先が長くなるので後略させていただきます)

 ところで(思うこと)ですが、妻もシャワーに入った後も、決して私に全裸を見せようとしない。70歳で前立腺がんになり、ホルモン療法を始めたとたんに、我が息子は突然に役立たずとなった。それまでは、交わっていたのに突然に不可能となった日から、後生大事に(見せるものか)とばかりに、見せてくれない。寂しいではないか。たとえ老いて互いに体形が変わろうと、それはそれ、夫婦なんだから、自然体でいいじゃないかと思うが、わが大和なでしこは、忍者のごとく上手にタオルケットに身を包み、さっと鏡台の前に逃げ込むように消えるのだ。わたしはごく自然にふるまっている。見るのも辛いわが裸身だが、寄る年波と言うのは、年の皺と言うことじゃ。シワシワネームで行こうじゃないか。

 鏡の中の顔を見て「おまえ、皺がふえたのお、でもよく頑張てるじゃないか、俺も頑張るから、お互いに元気で行こうぜ」と声掛けして、大声で笑っている。