中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

人の死をどう考えるか・「看取りの家」計画に住民反対

  問題提起です。
望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が
神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。
事業者側は、病院や高齢者施設への受け入れを拒まれたり、在宅療養が難しかっ
たりする患者の「受け皿」を目指しているが、地域の人たちは「亡くなった人が出て
いくのを見たくない」「落ち着いて生活できない」など、死を前提とする計画に拒否感を
示しているらしい。
 近隣住民にもいろん人がいるだろうが、若い世代が多いのだろうか?
人は100%死ぬということは理解できていても、日常的に死者が出るかもしれない
という施設の建設には嫌悪感があるのだろうか?
  人の死を穢(けが)れとだと考えているのだろうか。多くの人たちが知らないだけで、
そういう患者を受け入れている病院はあちこちにある。 その病院にはいったら生きて
は出てこられないよ・・と、人が囁くような病院は街の中にもある。
 しかし、そういう病院で最期を迎えられる人は幸せな方である。 そういう病院にも
受け入れないような人もいる。 須磨区で計画されているのは、そのような方々のために
作られようとしている施設かもしれない。 亡くなったからと言って、近隣の住民に死体を
見せて回る訳ではないだろう。死体をみることもないはずだ。 その場で火葬するはずも
ない。 住民たちは何を恐れているのだろうか? 自分たちが毎日の様に殺した牛や
豚や鶏を食べないで暮らしているというのだろうか。 動物園の肉食動物の餌には解凍
されたオスのひよこだと知っているのだろうか? 根菜も葉野菜もみんな生き物なのだ。
わたしたちは、生き物から命をもらっている。 そして、いつか死を迎える。だれもが
最期の時を迎えるのだ。 だれもが自分の望む最期を迎えられるかどうか・・・だれも
分からない。 自分勝手だけで物事を考えてほしくない。 もし・・そういう施設ができると
近隣の財産価値が下がることを懸念しているのなら、それはそれで露骨で恐ろしい。