中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの戦争体験(2)

 私は昭和9年に大阪で生まれて16年春まで過ごした。
当時の大阪には、東京に続いて地下鉄ができていていた。(梅田ー花園)
シティボーイ?として育った私だが、昭和16年春に淡路島の志筑町の祖父母の家に
引き取られて、小学校に通うことになった。
 ここでは、私の戦争体験を書いているので、どうしてそういう経緯になったのかなどは
、このブログの「生き方エッセイ」の中の「私流生き方」の中に詳しく書いているので
関心のある方は、ご面倒でも読んでみてください。
 
 さて、小学校に入学することになったのだが、なぜか「国民学校」と学校の校門の
看板が書き換えられていた。この年に布告された国民学校令によって、小学校の
呼び方が変更になったのだった。「国民学校」の第一期生というわけである。
だから教科書も、この年から内容が大幅に変わった。
当時は、教科書は近所の先輩から譲り受けて使用するという習慣があったのだが、
教科書も新しくなり、古い教科書は使われることがなかった。
 ついでに書いておくと、それから6年後には旧制中学校に進学を予定していたのだが、
学校制度が変わり、「新制中学校」になった。
 新制中学では第3期卒業生ということになるが、新制中学に1年生から入学したのは、
私たちが最初である。第1期生と第2期生は高等小学校からの編入である。
そして、新制中学校では全く違う新しい教科書になった。英語はレッツゴーイングリッシュ
というタイトルになっていた。
 教育教師の側も動揺を隠しきれない時代に教えを受けたことになる。
それもこれも戦争のせいなのだということを、孫たちの世代では気が付かないかも
知れないし、新制中学というのが、今の中学校なのだということも知らないと思う。
 
 国民学校の話に戻ろう。
教科書には戦時色が色濃く載せられていたものだ。
そして入学した年の12月8日には「大東亜(だいとうあ)戦争」が始まった。
青天の霹靂という言葉がぴったりのような開戦だった。
この戦争のことを第2次世界大戦という言い方もあるが、日本政府の正式呼び方は
大東亜戦争」なのである。
 昭和16年12月8日に、日本軍がハワイを奇襲して戦争の幕が開いた。
 この戦争には、幾多の視点が必要で軽々に論じられない。知れば知るほど奥の深い
裏話が潜んでいる。
 一口で言えば、米英の謀略があり、日本の国民が日露戦争後に図に乗っていて
呆けていたことと、それを国民感情と履き違えたマスコミの煽りを食った結果と言えよう。
マスコミは、いつの時代でもミスリードするから気を付けなければならないのだ。
 
 私のHP(中原武志のHPで検索)の中のJAニュースの「本と寄り添うながら」の中の
(世界を見る・考える(15)あたりにも、そのあたりの事情を書いたので参考にして
もらえればと思う。あちこちに書いているので場所が特定できるのは、このあたりだけか
なとおもう。