中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(176)私を守ってくれたのはだれなのか

 JA-08-03 過去から学ぼう

 JAニュース紙2003年8月号原稿

「世界を見る・考える」第十五回 

   《刷り込みというものの恐ろしさ》

 「摺り込み」と言う言葉がある。「摺り込み」ほど恐ろしいものはないと思う。どんな国の、どの時代に生まれたとしても権力者とその反対勢力による摺り込みが行われるが、20世紀以降はそれが顕著である。また、戦争の勝者による敗者への摺り込みは、敗れた国が将来再び脅威とならないような目的を持って行われる。終戦後の占領国アメリカによる日本戦略は、このような意味において大成功を収めたのではないだろうか。経済的に大繁栄したかに見える日本は、精神的には骨抜き状態である。摺り込みとは、言い換えるならばプロパガンダである。

 大東亜戦争アメリカは「太平洋戦争」という)が終った途端、それまでの鬼畜米英というプロパガンダから一挙に「すべては東条英機が悪かった」という言葉に置き換えられた。私たち子供心に強く印象つけられたのは「東条がこの戦争をはじめた。彼こそが日本を駄目にした張本人である。徳川時代の封建主義と東条の軍国主義が日本をこのような国にしたのだ」というものだった。多くの人たちはそれを信じ、今もそのまま信じつづけている人が多いのではないだろうか。そして、その反動でアメリカの民主主義にあこがれた。

 私自身、オーストラリアに移住し、1995年の終戦50周年に豪州各メディアによる「反日大キャンペーン」とも思われるような報道が一ヶ月間も続いていなければ「あの戦争」のことを詳しく検証し直して見ようなどとは思わず、「あの戦争は日本が悪かったのだ」と「自虐史観」を信じたままで一生を過ごしたのではないかと思う。豪州の各メディアのすさまじいまでの報道に接し、豪州青年達と話し合う中で、私自身がもう一度しっかりと「大東亜戦争」について調べ直そうと思ったのである。 それから8年が経った。あの戦争に関する本を何十冊読んだだろうか。おそらく1万ページを越えているだろう。これから、あの戦争について深く考えていきたいと思っているが、今後2年間(終戦60周年まで)連載しても、本にすると100ページそこそこしか書けない中で、易しく、詳しく書くことなど不可能だとおもう。しかし、この限られた中で、あの戦争について少しでも多くの方に「真実」を知っていただきたいと願っている。あの戦争は日本が悪かったのだと今もって豪州メディアは報道し、オーストラリア人の多くがそう思っている中で暮していくためには、多くの「真実」を知っておかなければならないのではないだろうか。そのために「東京裁判」を考える事で「大東亜戦争」を再考するきっかけになるのではないかと思っている。

東京裁判」という言葉は多くの日本人が知っている。しかし、東京裁判のことをどれだけ知っているかといえば、ほとんどの日本人は、その真実を知らないだけでなく、東京裁判についてこれまで深く考えた事もないという人のほうが圧倒的に多い。それはなぜなのだろうか。東京裁判についてよいイメージがない上に、深層心理の中に、経済大国となった今、古い傷跡に触れたくもないという心境と、あの戦争の責任を一部の人だけに負わせて、自分は正しかったと思いたい気持ちが東京裁判を直視しなかった原因ではないだろうかと思う。

また、「東京裁判」を良く知らないという人でも、小泉首相靖国神社参拝に対して「A級戦犯が祀られているところに詣でるとはけしからん」という抗議が中国、韓国政府によって毎年行われている事は知っているだろう。A級戦犯戦争犯罪者)という言葉は東京裁判から生まれた言葉である。

 東京裁判は正式には「極東国際軍事裁判」という。終戦後の昭和21年5月3日から23年11月12日までの2年6ヶ月の間、戦勝国側の連合国によって日本の軍人、政治家、外交官、民間人を戦争犯罪人として訴追し、深く戦争に関わったとされるものをA級戦犯としたものである。はじめに書いておきたいのだが、この裁判は現在においても「違法」と判断している国際法学者が多く、この裁判自体が戦争犯罪者を裁くというよりも「復讐」を目的として行われたものである事が、この裁判記録を克明に調べる事によって知ることができる。裁判が行われていた当時に「東京裁判」の経過を詳しく報道されていれば日本人の歴史観も大きく違っていただろうと思われるのに、どうして現在のような日本人に誇りを失わせるような「自虐史観」が生まれるいことになったのだろうか。その理由は、当時「東京裁判」についてそのすべてを報道することを許されていなかったからである。

当時GHQ(連合国最高司令官総司令部)が東京に置かれていた。連合国とは、交戦国アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、オランダ、カナダ、ニュージランド、中国、ソ連の9カ国にフィリピンとインドを加えた11ヶ国である。当然連合国の中心はアメリカ軍であり、最高司令官はアメリカのマッカーサー元帥(げんすい)である。

当時のGHQは、飛ぶ鳥をも落す、泣く子も黙るといわれるほどの権威を誇ってきた。どれほど強力なものだったかという一例を示すと、GHQの一課長という身分で、GHQにとって必要な議案を通すために日本の議会の時計を止めさせてまで議案の成立をさせたほど強大なものだった。GHQによる日本への憲法押し付け、戦後教育制度などは日本をして、いまだに二流国家といわれる部分を作り出したという点で、連合国側の戦後処理の成功例として挙げられている。

この当時GHQによってどのような言論統制、新聞報道の自由が奪われていたかについてはほとんど知られていない。次ぎに当時の新聞報道規制について列挙してみよう。各新聞は事前に検閲を受けねばならず、それを破れば発行停止処分が待っていた。欧米国が考えたものだけに、厳しい検閲通達にも関わらずその趣旨には「日本の言論自由のため」と書かれているのが可笑しい。

具体的な検閲内容は次のようなものである。

(1)SCAP=連合国最高司令官(司令部)に対する批判。

(2)極東軍事裁判東京裁判)の批判。

(3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判。

(4)検閲制度への言及。

(5)合衆国に対する批判。

(6)ロシアに対する批判。

(7)英国に対する批判。

(8)挑戦人に対する批判。

(9)中国に対する批判。

(10)他の連合国に対する批判。

(11)連合国一般に対する批判。

(12)満州に於ける日本人取り扱いについての批判。

(13)連合国の戦前の政策に対する批判。

(14)第三次世界戦争への言及。

(15)ソ連対西欧諸国の「冷戦」に関する言及。

(16)戦争擁護の宣伝。

(17)神国日本の宣伝。

(18)軍国主義の宣伝。

(19)ナショナリズムの宣伝。

(20)大東亜共栄圏の宣伝。

(21)その他の宣伝。

(22)戦争犯罪人の正当化及び擁護。

(23)占領軍兵士と日本女性との交渉。

(24)闇市の状況。

(25)占領軍軍隊に対する批判。

(26)飢餓の誇張。

(27)暴力と不穏の行動の扇動。

(28)虚偽の報道。

(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適正な言及。

(30)解禁されていない報道の公表。

以上の30項目はあまり知られていないが、ぜひとも保存し記憶にとどめておいて頂きたい。これから書き進める内容を正確に把握していただくためにも、これらGHQによる検閲事項は忘れてはならないことだからである。

以上30項目を概して言えば、どんな事でも検閲に引っかかる恐れがあり、日本のために正論を新聞紙上に論説を張るということなど不可能であったことが分かる。このような状況のもとで東京裁判が開催されたという事実をしっかり記憶にとどめておいて頂きたいと思う。裁判の中で、日本側がどれほど反論できたとしても、以上の検閲によって日本側の言い分が新聞に載る事はなく、連合国側の主張だけが掲載されることによって日本国民への「摺り込み」が行われたのである。

大東亜戦争(太平洋せんそう)は昭和16年(1941)12月8日に日本のアメリカとイギリスに対する宣戦で始まり、昭和20年8月15日に終戦を迎えるまで続いた。(正式には降伏文書に署名した9月2日に戦争が終った事になっている)しかし、東京裁判では1931年まで遡り、満州事変から支那事変といわれた日中戦争まで含めて戦争責任を問われる事になった。1931年から侵略戦争がはじまったからだと言う判断である。ここで大きな問題が問われる。まず侵略戦争の定義であり、そしてまた当時の国際法では侵略戦争は犯罪とはされていないと判断される事などである。戦争犯罪を裁くときに根拠となるはずの国際法東京裁判では全く無視された形で推し進められ、その内容の報道には規制が行われて「真実」が報道されなかったという事実を忘れてはならない。