中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

高齢夫婦の日々のあれこれ(35)

 今日は(シーアに買物に行こうカー)でした。

とても良いお天気で車内は暑いほどでした。

 妻に頼まれたライオンの歯磨きなどを探すのに手間取り、帰りの時間に5分遅れになって他の方々に迷惑をかけてしまいました。

 店内で(出汁の素)はどこに売っていますかと若い定員に尋ねたのですが分からず、あっちこっちに連れられて時間を食ってしまいました。通路の表示の仕方にも問題があるように思います。

 かなり慣れてきていますが、未だにウロウロしている有り様です。

 遅刻しているので所定の場所までカートを押して私なりに精一杯のスピードで歩きました、、ああ大変、、。

 でも、ドライバーの山田さんは「急がなくとも大丈夫ですよ、他の方たちも優しい人たちですから」と慰めてくださる。

 帰宅して買物を所定の場所に収めるのに一苦労。

 介護ケアの事務所から、私が要支援2に変更になったことで契約書を取り交わして続くに来られる。

 彼は、私が寝たっきりになった折に身体を拭いていただいたり、シャワーに入れるようになってからはシャワー介助をしていただいた方で、私の身体を知っている方でもある。

 要介護4から要支援2になったという例はあまりないのです。それだけ中原さんがよく頑張ってきたということでもあるのですと励まされる。

 なるほど、そういう考え方もあるのかと、この3年間を振り返ってみて、死か生かの中で踏ん張ってきた自分を褒めることにしました。

 昨日、家族ラインで「コメがなくなったのでアマゾンで買ったが不味い米だった」とボヤいていたら、長女が仕事で淡路島に行っていた孫に美味しい米とイチゴとトマトを「おじいちゃんに届けて」と渡してくれた。孫がわざわざ持ってきてくれる(先日、甲子園へ連れて行ってくれた孫だ)。

今月末に子供が産まれる。無痛分娩で日も決まっているらしい。

 お父さんになる心構えは出来ているかと訊くと

「全然」と言っていました。 赤ちゃんが産まれると自然に親父らしい気分になってくるだろうと思っています。

 曾孫が4人になる日が近い。

 

 

89爺ィの愉しむ料理(168)

 今夜の食事は昨日から決めていました。

身体を休めたいから簡単なものでいいかと妻に了解を取っておいたので、ラクチンでした。

 妻が気を利かせて焼きメスを作ってくれました。

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 ★ 高菜の焼き飯(妻が作ってくれました)

 ★ 鶏ももの唐揚げ

 ★ 自慢のポテトサラダ

美味しく口当たりが良いので、あっと言う間にポテサラを食べてから食事を始めるみたいな感じになってしまいます。

 シーアの唐揚げは、ちょっと飽きてきたみたいですので、次回は他のものを探そうと思います。

 

随筆自伝(144)私を守ってくれたのはだれなのか

  思い出したので数年前にさかのぼってかくことといたします。なにしろ私にとって記念すべき出来事でもあるのですから。

      《第40回・海外日系人大会に参加する》

1999年5月12、13、14日の三日間、東京の九段会館において、世界各国から約250名の日系人が参加して開催された。

 オーストラリアからの参加者は9名(シドニーから5名,パースから4名)であった。毎回シドニーの保坂氏が参加されていたのだが、私が全豪日本クラブの会長という立場もあり急遽参加することにしたのだった。

 大会を主催するのは、財団法人海外日系人協会という外務省の外郭団体であり、外務省OBがその多くを占めている。後援は、東京都,全国知事会国際協力事業団国際交流基金経済団体連合会日本商工会議所、日本貿易振興会,国際観光振興会であり、すべてお役所的団体である。

《熱のこもった討議の代表者会議》

第1日目は代表者会議だった。ブラジル,アルゼンチン,ペルー、ウルグアイ,コロンビア,ベネズエラパラグアイアメリカ(7地域),カナダ、メキシコ、フイリピン,マレーシア,韓国、オーストラリアの中から35名が代表者として選ばれた。代表者以外の参加者もオブザーバーとして参加している。

全員が自費負担参加だから、誰はばかる事もなく発言でき、中には主催者(政府側)の気に食わぬ発言もあって、官僚が気色ばみ、緊張が走る場面もしばしばであった。

 参加者の中には、観光を兼ねている人も少なくないが、私のように、とんぼ返りでの参加者もかなりいたし、地球の反対側からこの大会のために帰国したことで参加者の意欲のほどが伺えると思う。その熱意だけでも、ただの大会ではなかった。

 九段会館会議室で5月12日午前10時から代表者会議が行われた。立派な会議室には、ロの字型にテーブルが配置され、その一方に主催者側の(財)海外日系人協会の柳谷理事長以下理事4名,外務省からは移住政策課福川課長、国際協力事業団からは移住企画調査課小松課長などが列席された。

 自己紹介と各国の事情説明が行われた。この発表の中で、各国の事情を窺い知ることが出来たし、それぞれの国において違った問題を抱えている事が理解できた事は大きい。

 会議室には、オブザーバーの席も多数(150席ぐらい)用意されていた。

大会の本題は「転換期の海外日系人社会」であり、(1)進む世代交代(2)日系社会を維持発展させるために(3)日本との絆の一層の強化を求めてだった。  

 国策として約130年前から移民として他国に移り住み、数々の困難の中で今日の日系人社会の評価を築き上げてきた歴史を顧みるときに、これらの問題は重要なものである。

外国にあって、いかに日本人としてのアイデンティティを確立するかと言う問題であった。日本人としてのアイデンティティの確立のためには、日本語による日本文化の理解が欠かせず、南米諸国では第2言語として日本語よりも英語を重視する傾向がある中で、いかに日本語教育を進めて行くかが大きなテーマとなった。

 日本人は、他の国の人達以上に現地に同化しやすい人種だと各国からの参加者たちから指摘があった。中国人などは世界中に住んでいるが、日本人ほど現地に同化していないらしい。現地に同化するということは悪い事ではなく、その国に様々な貢献をしていて評価されるべきことである。だが、外国から、祖国を支えるという意味では希薄になっているという指摘があった。言いかえれば、愛国心が希薄なのかもしれないが、祖国が移民を棄民扱いして来たことと無関係ではない。会議の内容はあまりにも多岐にわたっているので省略する。

 第1日目の締めくくりはグランドパレスホテルに移動して開かれた「海外日系人協会理事長主催」の歓迎レセプションだった。政府や国会議員も多数参加した。

 第2日目の代表者会議は予定を早めて開始される熱心さであった。正午までに、前日の内容をまとめ「政府に対する要望書」を仕上げなければならないため充分な討議が出来ないまま「要望書案」を取りまとめる。主催者側の意見もあり、要望書がうまくまとめられないという一面があったのは残念である。

 

天皇、皇后両陛下ご臨席の下の式典》

午後1時半から、九段会館ホールにおいて全体会議が開かれた。入り口には空港などで見られる金属探知機が2台設置され、チェックを受けての入場である。

 全体会議は「要望書案」が読み上げられ、それを全体会議で了承すると言った形式だけのものである。質疑応答の場も設けられていないのは日程が混み合っているからだろうが不満を抱く参加者 もいたに違いない。

 午後3時40分、天皇、皇后両陛下をお迎えして式典が開催される。両陛下のご臨席は、この大会が始まってから40回目で初めてのことだそうである。

私はオルコット美砂子さんとともに最前列に座った。ステージ上の両陛下がお座りになった側だったために両陛下の正面となった。約10メートル先の両陛下を前にして緊張している自分を感じた。私の生まれた時代の影響なのか、それとも両陛下の持っている雰囲気がそうさせたのかはわからない。わたしはどれほど偉い人に会っても緊張しないのだが10メートルを隔てているにもかかわらず緊張した。

 

《総理官邸へ行く》

 式典終了後、バスに分乗して総理官邸へ行き「総理主催レセプション」に出席する。野中官房長官も同席される。小渕総理の挨拶はユーモアを交えた楽しいもので会場の雰囲気をほぐし、一同、美味しい料理に舌鼓をうった。

 第3日目のスケジュールは、10時からバスに分乗して皇居の特別参観をし、正午からは憲政記念館における衆参両院議長主催のレセプションに参加、靖国神社に自由参拝し、NHK見学、夜は東京都知事主催のレセプションに出席してすべての日程が終了する予定で、その夜の石原都知事主催レセプションで、参加者を代表して私が挨拶することになっていた。

《外務省での会議に出席》

 ところが、急に外務省での会議にお出席を求められ、代表者の中から15名が指名されて出席した。とても広い円卓の会議室で、私にとっては初めての体験と言ってよい会議場だった。

代表者と外務省の大使経験者10名による会議だった。この会議が盛り上がり予定を大幅にオーバーしたために、都知事主催のレセプションの開会に間に合わず、代表者挨拶ができなかった。1か月前に石原知事が当選したばかりだっただけに、親しく話す機会を失ったのが残念だった。

 レセプションが終わった後、外務省から明日、皇居内御所でのお茶会に招待される旨の連絡を受けて驚く。

外務省での会議に参加した人たちが御所に招かれたようだ。40回の大会の歴史の中で初めてのことだと告げられる。

89爺ィの愉しむ料理(167)

 雨が降り続き鬱陶しいですね。

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 ブランチはいつもこんな感じですがリンゴが美味しくなくなってきて寂しいですね。

 ブランチのあとはコーヒを飲みながらお菓子類を食べています。

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 今夜も土佐煮ですが、前2回は豚肉を使いましたが今夜のは鰹節で煮ました。

 今日作った新じゃがいものポテトサラダは抜群においしかった。マヨネーズを少なくしたので新じゃがいもの味が際立ったようです。

随筆自伝(143)私を守ってくれたのはだれなのか

          《映画「シンドラーのリスト」を観て泣いた》

 母が亡くなった後、お世話になったかたがたにご挨拶にと帰国した際に、アカデミー賞7部門を受賞した映画「シンドラーのリスト」が日本で上映されていた。

 ポーランドを舞台にした映画だった。

ナチスドイツによって強制収容所に送られて殺されていくユダヤ人を一人でも多く救おうとした一人の実業家を描いたものだ。

彼によって救われたユダヤ人は千人に上ると言われている。

 主人公の彼が「もう少し金があれば、もっと多くのユダヤ人を救えたのに」と嘆くシーンがラスト近くにある。

そのシーンを見たとたんに、わたしは泣き出してしまった。映画館の中ではあったが、涙が止まらなかった。嗚咽というほどの泣き方になってしまった。

 わたしにも、もう少し資金力があれば、もっと多くの子供たちを救えたのにとずっと思い続けていたので、映画の主人公の嘆きが、わたしの思いと重なってしまったのだった。

 私の場合は、ユダヤ人のように命がかかった問題ではないが、行き場を失って戸惑う子供たちに高校進学の道を作ってやろうという信念から、資金もない身で高校をつくろうと必死で頑張ってきたのだった。 本当に、命がけで、懸命な努力と多くの人の支えで作った学校だった。

 帰国して、教師たちから聞くと、多くの生徒が退学処分されていると聞いた。生徒が問題を起こす。経営者は、自分をも守ろうとする。経営者は社会に恥をかきたくない。問題の生徒は退学してもらうということになるのだろう。

理念は変えないと約束したはずだが、新しい理事長には、彼なりの考えがあったのだろうと思う。

そういう話を聞いたあとで「シンドラーのリスト」を観たのだから、主人公に重ねて、たまらずに泣いてしまった。

 その翌年に、阪神淡路大震災によって廃校に追い込まれたのだから、人生って分からないものだと、つくづく思わずにはいられない。

 《娘家族が帰国してすぐに「阪神淡路大震災が」》

娘家族が我が家での、約一ヶ月の滞在を済ませて帰国した翌朝に「阪神淡路大震災」が発生したのだった。 娘は、

『ほんまに、天国から地獄って感じだわ。帰国して、のんびり眠っていたらド~ンという地震だものね。家から見るとあちこちで火災も見えるし、これまで見えていた建物も消えてしまっている。うちの家はおかげで大丈夫のようだけど』

 と、震災後しばらくして電話があった。

 世の中、なにが突然に起こるか分からないものだと、つくづく思った。恵美は震災離婚をしたが、後に素晴らしい亭主を得て幸せになった。

50歳を過ぎてから自力で大きなログハウスを建て、カフェレストランを営み、孫二人に恵まれた。これが掲載されて数日後には、恵美の長男の妻が孫を出産するころだ。わたしにとって三人目の曾孫になる。

妻の娘の清子は、マンションの床が抜けて一階までドスンと落ちたようだが、怪我はなかった。その後が大変だったようだが、よくしのいで今では孫二人を持っている。

大阪に住んでいた娘も、孫たちも無事で、淡路島にいた二人の娘たちの家も家族もみんな無事だったのが何よりだった。

 前にも書いたが、兵庫県への募金活動に走りまわったが、ごくわずかしか集まらなかった。当時は、豪州のテレビなどで詳しい報道もなく、あれほど酷い状態だったとわかったのは震災から2週間後あたりだったと思う。

震災の場合は事情が伝わってくるのが遅いから、これほどひどい地震だとは思わなかった人が多かったかもしれない。実情が分かってきたのは、一か月以上たってからだった。 私の募金活動が早すぎたのかもしれない。 実情がわかるにつれ、少ない募金額では申し訳なく、西豪州日本クラブからの募金は私が大きく上乗せして兵庫県に送った。

     《私の記念碑でもある神戸暁星学園が消滅することに》

 神戸暁星学園は、須磨校舎が類焼で全焼し、兵庫校舎がやや傾いて、校舎としての使用禁止命令が下った。

 三年生は卒業日が近いために、特例のレポート補修が認められることになり、新規募集は中止して残るは在校の二年生の扱いだけとなった。 

公立の夜間高校の校舎を借りての授業を続けて全員を卒業させて廃校となった。もちろんこれらの震災後の対応は、すべて私から引き継いだ理事長以下が対応してくださった。

この大震災が発生したために学校は廃校のやむなきに到り、わたしが受け取れるはずだった十年間、毎月の報酬を頂ける契約も反古となった。

わたしとしても収入が絶たれてしまったのは、予想外の事であり大きなショックであった。 万一経営的に赤字になっても新理事長と副理事長から給与分の支払いは行うという契約であったが、大震災を受けての廃校となってしまっては、契約の履行を求めるわけにもいかない。

ドラマ「舟を編む」をみての感想

 本屋大賞1位になってベストセラーとなり、映画化もされたものですが、NHKBSで10回に亘り放送されたドラマはとても良かった。

 本で読んだり映画で見るよりドラマが最も良いものに仕上がっていたという感じがしました。

 原作を忠実に描きながら新型コロナウイルスの流行を取り込んで描いたのも良かったと言えるでしょう。

 こういうドラマをもっと多くの人たちが観ると良いのになと思いますが、案外視聴率が悪いのかも。

地上波での゙再放送を願っています。

 私は40歳代の頃、辞書をトイレに置いて、調べるのではなく、何気なくページを開いて、そこに出ている項目を読んでいました。辞書は読み物としてでも面白いものなのですが、高齢になると解説文の部分の文字が小さくて読み辛い。

 解説文を読んでこそ面白いのに、解説文が読めない大きさの文字の辞書しか売っていません。

 見出しだけが大きな文字では意味がないのにね。

そこが問題です。

89爺ィの愉しむ料理(166)

 夕食に毎日タケノコ料理では飽きるだろと思って残っている筍をきれいに洗って冷水を入れ替えて保存して有る。

 早く使った方が良い食材からメニューを考える。昨夜に冷凍庫から冷蔵庫に移しておいた胸肉を使った料理にしようといくつかのメニューを考えながら、早めに下処理をしながらまだ悩んでいたが、

薄く削いで醤油、砂糖、みりん、酒を入れ揉み込んで冷蔵庫へ戻しておいた。

 午後5時過ぎに電気釜をスイッチオン。

新玉ねぎ2個を薄切り、ピーマン1個を千切り、人参5センチを千切りにする。

 した準備した胸肉に片栗粉をまぶして両面を丁寧に焼き、野菜を加えて炒めて、合わせておいた調味料を加えて仕上げる。

「胸肉と新玉ねぎの甘酢掛け」の出来上がり。
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妻が大変気に入ってくれたようです。酢豚みたいと言っていました。

 もう一品は。300グラムもある大きな絹ごし豆腐がメインです。 カニカマを炒め菊菜を入れ、豆腐を入れて炒めたあとに卵2個を入れて仕上げました。麺つゆを使って味付け。

 胸肉、豆腐、卵で今夜は蛋白質一杯の料理にしました。

 同じマンショに住むMさんが「いちご狩りに行ってきて、色んな種類の入ったお土産用のを買ってきました」と持ってきてくださいました。

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 すごく大きなものから普通サイズまで。デザートに半分だけ頂きました。あとはブランチにいただきます。