中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

故郷の佇まいが消えていた(書き直し)

 昨日、娘夫婦の車に乗せてもらって淡路島に行ってきた。
最近2年間、遠くまで運転するのがつらくなって行っていなかった。
淡路島の志筑(シヅキ)は、私の故郷である。故郷とは戻れるところ
という意味もあるというから、そういう意味では戻る場所を持たない
私には故郷と言えないかもしれない。
それでもやはり私にとっては故郷なのだ。
 小学校、中学校在籍の9年間のうち8年間をここで育った。
(小学校の3・4年生の時、半年ずつ大阪の小学校に転校していた)
 
 23歳から36歳までは志筑かその近隣に住んでいた。
 小、中学校の在学中は、自宅から学校までの道順はほぼ同じで、
通学路の街並みは、今でもすっかり私の記憶の中に残っている。
 36歳から57歳までの間にも、幾度か故郷に帰った時にも町並みは
大きく変わったという印象はなかった。
 だが、57歳で海外移住して70歳で帰国するまでの長い間の淡路島を
知らない。
 2005年に帰国してから、これまで4度足を運んでいるが、墓参のために
目的地まで直行していて、かつての通学路に足を運んだことはなかった。
夢の懸け橋(淡路、明石連絡橋)も帰国してから初めて渡った。
高速道路や新しく作られた多くの道に惑わされながら、標識とを頼りに車を
走らせて、ようやく父の眠る墓にたどり着くという感じだった。
 
 昨日、娘たちの車に 乗せてもらって3年振りに淡路に向かった。
六甲山中腹のわが家から、六甲山を北区に抜けて淡路の志筑まで、わずか
45分だった。自分で運転していると長く感じるが、昨日はあっという間に
着いたという感じだった。
 あちこち(鮎原~津志~一宮など)を、車で懐かしい場所を回り、志筑に着いた
ところで、 娘の学友の家に立ち寄るという。
 名前を聞いて「それはパパの同級生生の家だよ」と、私が言い、娘は驚いていた。
娘より私の方が家の所在もよく知っていたというのも当然で、故郷のわが家と近い
場所だったからだ。
 突然の訪問ではあるが、私の同級生も健在で、昔と変わらぬ、悠然とした風格
が今も同じだった。まるでNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」のような感じだった。
 震災で立て直したという家屋は、素晴らしい素材を使った立派なものだった。
淡路島は昔から大工の腕がよいことで知られている。鮎原にまで足を延ばしたのも、
司馬遼太郎氏の記述に淡路島の鮎原と長野県の(地名を忘れた)は、全国の中でも
秀でた農家の家が多いと書かれていたことを思い出して、再確認のために行った
のだが、年月がかつての凄い佇まいの農家を少なくしていて、さびしかった。
 
 父の墓に詣でたあと、久しぶりにかつての通学路に行ってみた。
これまでの帰郷の折にどうして通学路に立ち寄らなかったかというと、知らないうちに
新しい道がたくさんできていて、かつては主要な道だった通学路を通る機会が
なかったということだ。
 娘が「私が生まれた場所を場所を教えてほしい」というので、久しぶりに旧市街に
足を踏み込むことになったということもある。
 そして驚いた。私の記憶にある町並みがすっかり消え失せていたのである。
 町の中心である「中橋」のところに立っても???という感じで、様子が
つかめない。
 昔は「旧道」と呼ばれる通学路にあった「高砂屋」さんへも立ち寄ったが、そこが
かつての通学路だったとはとても信じられない。私は確認のために、昔に世話になった
「正木孝良さんの家はどちらでした?」と尋ねてみた。私の人生にあるポイントを与えた
人の名である。高砂屋さんの奥様が「すぐそこ」と答えてくださったのだが、それでも
ここが旧道だとは信じられなかった。
 町のあらゆる場所が、私の記憶するものから、ほとんど消えてしまっている。
点と点をたどってやっと娘が生まれた家があった場所を探し出した。街の中心部なのに
こんなにもわからなくなるなんて・・・。
 あの、淡路、阪神大震災によってこのように変わってしまったらしいのだが、同じように
大きな被害があった神戸市は、帰国した私に大きな違和感を与えなかったものだ。
 志筑という町は、神戸市以上に大きな被害だったとは聞いていなかったが、どうして
これほどまでに変化してしまったのかと、驚いている。
 でも、よく考えれば、JR六甲道周辺や東灘区、長田区、兵庫区などでも大きく変化した
場所がある。
 旧道と言われる通りは、南海地震 (確か、私の中2ぐらいだった) の際にも大きな被害
が出た場所であり、地盤が軟弱なのかもしれない。
 私にとっては、浦島太郎的な気分だが、毎日をそこで暮らす人たちにとっては、違和感は
ないのだろう。
 町は道路一本新しくなるだけで変わる。それなのに、新しい道が多くなり、田んぼであった
場所に家が立ち並び、気が付かぬうちに様変わりしていくものだと思う。
 そう考えれば、江戸時代からの佇まいを保存し続けている地域の皆さんの「凄さ」を
思わずにはいられない。