中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(132)

(132)
第5章 現場で思うこと
「しつけ」について その1
 教師に子供を殴ってくださいという親たち
 
 核家族化が進み、年齢を重ねた人の意見を聞くこともなく、親になるための教育も受けたことのない若い二人が、ある日、突然親となり我流で子育てをしています。これは都市社会に生きる若い人たちの典型的なスタイルです。そのうえ、社会の状況が変化し、社会教育がほとんど期待されなくなりつつあります。
 以前は、多くの子どもが働いていました。自分のお金を得るためでなく、家族のために働いていました。子どもも家族の一員としての意識を持っていました。最近は、子どもを働かせる親は、ほとんどおりません。家族の一員として、その何分の一かの仕事を子どもにさせる親はほとんど見かけません。「勉強さえしてくれればいい」と親は思い、子どもに勉強だけを要求するようになりました。勉強ができるかできないか、好きか嫌いかに関係なく、親は子どもに勉強だけを要求し、よいテスト点だけを期待するようになりました。
 私の子どもの頃には、公衆浴場へ行って、立ったままお湯を浴びると、
近所のおじさんが、「こら、座って湯つかわんかい。シブキがかかるじゃろが」と注意してくれたものです。いい意味での、おせっかいが世間にありました。最近は、「うかうか他人の子に注意をしたら、何をされるか分かったもんじゃない」と、多くの人が考えるようになってしまいました。
 かつては、狭い家に多くの人が住んでいて、台所で仕事をしている母親のそばで宿題などをしていました。兄が、「九九」の暗記をしているのを聞いていて弟がそれを覚えました。今は個室にこもりきりになってしまう生徒が増えてきました。
私の子どもの頃には、テレビもありませんでした。映画だって、一年のうち一、二度行けるかどうかでした。勉強ができなくても、コマ回しが上手なだけで子どもたちの間で認められる風潮がありました。
 最近は、近所の子どもとあまり遊ばず、家でファミコンゲームに夢中になったり、学校の成績だけが評価のすべてになるために、塾に通わなければならなくなり、友人だって競争相手としか考えられなくなってきています。
核家族化が進み、内湯(この言葉も古くなりました)が多くなり、大衆浴場へ行くこともほとんどなくなり、肌をふれあう機会が少なくなりました。最近では、修学旅行のとき、海水パンツを着たまま風呂に入る生徒までいます。
 昔は、「地震、雷、火事、親父」という言葉がありました。怖いものの順を言った言葉ですが、最近は、「親父」が怖いと思っている子どもが少なくなりました。親父が怖いという子どもによく聞いてみると、「なぐられるから怖い」という。なぐられなくても怖いのが親父の存在でした。世の親父たちは、それだけの存在を持っていました。なぐって怖がらせるのは、痛さへの恐怖であって、親父に対する畏怖の念とは違うように思えます。最近は、「親父」も母親とともに「うるさい」存在になってきているように思います。
それに、最近はなぐることもできなくなった親が増えてきました。なぐることは、よいことではありませんが、子どもを叩くことができるのは親だけでしょう。ところが新聞の報道によると、ある中学校のPTA総会で、教師に対してもっと子どもをなぐってくれるように、との決議がなされたとのことです。
私の学校でも、こんな会話がされることがあります。
「あの・・・・・先生、私や主人は親ですから・・・・・」
「・・・・・」
「親ですから、子どもをなぐれません。どうか先生、子どもをなぐって変えて下さい」
これは、本当の話です。私は、「親ですから」の次に、まったく別の言葉を期待していました。私は、この親の言葉に驚きました。
最近、このような親が増えてきています。子どものしつけができなくなってきているのです。小・中学校の子どもにさえ門限がなくなりつつあります。私は、入学に際しての親子面接の時に、「門限を決めていますか」とたずねることにしております。
「門限があります」という親に、「何時が門限ですか」とたずねますと、「はい、私の家では十時です」とか、「十二時までと決めています」と言う親の多いのには、もう驚きの世界です。それでもまだいい方で、門限を決めている家庭は毎年一割にも達しておりません。
「この地球上には、一六四カ国ほどの国があります。世界中のどの国でも、子どもには、厳しいしつけをします。しつけとは、いろんな制限を子どもと約束するということです。『もう寝る時間ですよ』とか『起きる時間ですよ』とかです。こんなことは、犬にでも教えます。してよいことと、してはいけないことの制限をつけることから、しつけは始まるのです。そして、その制限に例外があってはいけないのです」
「・・・・・」
「例えば、子どもが小さい頃、一日に十円の小遣いをあげると約束しておきますね」
「・・・・・」
「ある日、お母さんのお友だちが来てお話に夢中になっているとします。子どもは、寂しいからグズグズ言います。その時、お母さんが『十円あげるから遊んでおいで』と、約束事とは別の十円をあげてしまったとします」
「・・・・・」
「子どもは考えます。誰かお客さんが来たときには、別に十円もらえるもんだと。子どもとの約束を破るのはたいてい大人の方なのです。大人が先に約束事を破っておいて、今度は叱るのです。子どもは、何が何だか分からなくなってきます。ある時は良いことが、ある時は悪いと叱られます。子どもは戸惑__ってしまいます。しつけには、必ず制限を伴いますから、例外を作ると、子どもの側は、許された都合のいい方を選んでしまうのです」
「・・・・・」
「ヨーロッパだって、アメリカだって、普通の家庭では門限が厳しく決められています。家族の一員として仕事の分担もしないのに、たくさんの小遣いがもらえる国ってほかにあるでしょうか。子どもは勉強だけしていればそれでいいという国は、世界のどこにもないはずです。子どもに一流ブランドの服を着せている国も、日本だけかもしれません」
「・・・・・」
私が、このような話をしますと、「それでも、日本は世界一の国になれたのでしょう。これでいいのではないですか」と反論する人がいます。ちょっと待って下さい。現在の日本を築き上げたのは、どの世代の人たちだったと思いますか?このような、世界にも例のないほどの甘えを許して育てた人たちが大人となった時、そして、それ以降の日本は、かなり厳しい国になっていると思います。現在、子どもたちを育てている親たち自身が、すでに甘やかされて育っています。ですから、門限もなく、仕事も与えないで子育てをしているのです。そのような親たちに育てられた子どもは、次にどんな子育てをするのでしょうか。
「しつけ」とは、いろいろな制限をつけることだと書きました。しかし、この制限の意味も理由もわからずに、しつけをしている親が多いのではないでしょうか。ただむやみに叱り、親の思いどおりに子どもをしばりつけることが、しつけなのではありません。
子どもは無垢で生まれてきます。そして一人一人が、それぞれの成長のプログラムを持って生まれてきています。そのプログラムを理解できるように、親も教師も努力しなくてはならないのです。