中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(35)

阪大病院へ子供を連れていた。
初めて見る大病院だった。予約があったとはいえ、かなり待たされて
部屋に通された。
普通の診断室ではなかった。
大講堂のステージのような場所だった。
ステージの中の一段高い所に椅子が据えられており、周囲には
50人ほどの白衣を着た医師たちが取り巻いていた。
その中に、私は子供を抱いて先生の前に、おずおずと進み出た。
 
先生は、娘のおでこの辺りを手で触れた程度で、英語?でなんとか
かんとかと説明して周囲の医師たちを見まわした。
説明はあとで別の医師からするという。
時間的には1分とかからない診断だった。
大勢の医師を従えた異常な雰囲気に圧倒されていた。
診察と言うより、ステージ上での劇中劇のようだった。
 
あとで分かったことだが、この人はとても有名な西沢教授(小児科)だった。
西沢教授は、1955年に問題になった森永ミルク事件で、森永側に与した
立場をとったかどで問題となり、かなり後のことだが追放?になったような
記憶がある。
「いずみ」の病名は脳性マヒだった。今なら町の医者でも脳性マヒの診断は
できるが、当時はあまり知られていなかったのだった。
 
脳性マヒと聞かされても、その後にどうなっていくのか分からない。
ありとあらゆる文献を探し読み漁った。
娘の将来のためにと、当時出来たばかりの「のじぎく園」(三木市?)だったかにも
行って見学したことがある。今と違ってかなりの時間を要したものだった。
 
いずみは、1歳半の時、はしかに罹ってあっと言う間に他界した。
熱が高くなり、体温計が振りきれていたから43度以上になっていたのかも知れない。
あの時、私は我を失うと言うか、何が何だかわからない状態だった。
放心というのは、あのようなものなのだろうか。
門の中に、木になるほどの大きなマーガレットがあり、きれいな花が咲いていた。
今でも覚えているほど印象的だった。