中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(33)

淡路島に帰ると言っても、住むところがない。
貸家などは基本的にはないのだから、不動産屋もない。
まだ家財は少ないので引っ越しは身体だけと言った感じだった。
町はずれに近い場所にあるお宅の「離れ」を借りたが、そこは八畳
ほどの広さだった。とにかく生活するには勝手の悪いところだが、
辛抱するしかない。
金がないのでは、贅沢は言えない。
とにかくここから再出発を計るしかしかたがない。
子供が生まれる予定は12月末だった。それまでに生活の目安を
立てたいと思った。
 
町に、様々なお店の経理事務を引き受けてやっている方が居ると聞いた。
元は小学校の先生だったらしいが、かなりの年配の方で、私は知らなかった。
かましく、手伝う仕事はないだろうかと相談を兼ねて訪ねた。
先生は、明日からいらっしゃいと言って下さったので、いくらいただけるかなど
と、聞きもせず、「では明日からお世話になります」とお願いした。
私が経理代行業を始める発端になった日だった。
 
山内先生宅に働きに出かけた。振替伝票などは「簿記の入門」で見ただけで
書いたこともない。
入金伝票や出金伝票を基に振替伝票を書いて行く作業をあてがわれた。
振替伝票に書くのは複式簿記の基本でもある。この作業が出来なければ
何もできない。しかし、これまで本で学んだだけで本物に触れるのさえ
初めてであった。
知りませんとは、言えない。知らなければ、出来なければ、その瞬間に
職を失うことになる。必死だった。分からないものがあれば、昼休みに考えて
午後に記入したものだった。
先生に、初心者とはバレなかった。なんとか続けられそうだった。
 
そんなある日、突然子供が生まれた。あまりの突然に右往左往するばかり
だったが、産婆さんを連れて来て無事に出産を終えた。当時は病院もなく
入院して子供を産むなどということは、田舎ではなかった。
初めてのわが子は、猿のようだと思った。未熟児で小さかった。
「いずみ」と命名した子が生まれた翌日に、世界最初の宇宙衛星である
スプートニク第1号がソ連から打ち上げられ、軌道に乗り、世界中が大騒ぎした。
1957年10月4日だった。