中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

皇室継承問題

 天皇陛下生前退位問題を受けて「平成」という元号はどうなるのかなど、
 さまざまな問題も浮上している。
 そこで、少し古いが15年前に新聞の連載に書いた記事をここに載せておこうと
 おもう、 少し長い記事なので、関心のある方に読んでいただきたい。

  

             皇室継承問題を考える


                     JANEWS新聞 200112月号掲載      


                                   中原武志


 12月1日、皇太子妃雅子様内親王をご出産になり、敬宮愛子内親王(としのみや あいこないしんのう)命名された。悪いニュースの多かった今年の締めくくりに、このような嬉しい便りが届き、これを機会に日本中が一挙に幸多い方向へといくことを望むばかだ。

  遠く日本から離れて住んでいると、皇室から縁遠くなる部分がある。しかしまた、海外に住む事によって皇室への思いを強くする人もいるだろう。

 私にとっても皇室は縁遠い雲の上の存在であり、皇室の何たるかをほとんど知らずに来たものである。

 しかし、2年前のJAニュースに書いたように、1999年5月皇居内の御所(お住まいの部分)でのお茶会にご招待を受け、至近距離で1時間もお会いできたことは私の数多いハプニングの中でも最高の驚きであった。

 その上、お会いした際とお別れの際の二度に亘って、両陛下から握手を賜ったことは至上の喜びと言える。日本では首相といえども握手を受けることはないだけに、両陛下から握手を賜った日本人はごく少数であり、それだけでも羽が生えて飛び立ちそうな夢心地であった。

 それまで、皇室の日本国における重要性というものをあまり考えたことがなかった私も、その時に知ったその任務の重さに驚き、今では皇室に対して強い尊敬の念を抱いている。

 先日、私の参加しているインターネットのMLの中で「皇后陛下はボランティアをしたことがあるのでしょうか?」という質問があった。驚くと共に、これが一般日本人の皇室認識の典型的なものかもしれないとも考えた。

 こんな言い方は、皇室に対して失礼かもしれないが、私なりにわかりやすく言えば「皇室はその一生を日本国のためのボランティアとして生きている」と言える。そして、その日常は想像以上にハードであり、肉体的に精神的によほどの強靭さが要求されるものである。一日のほとんどを公務に費やし、プライベートの時間などはほとんど持たない中での日常である。

 皇室が、特に外国との親善に、多大な貢献をしていることを知っている人も少ないが、国内的にもその貢献は大きい。

 そういう多忙な日常であるにもかかわらず、それらが国民にほとんど知られていない背景には、宮内庁の古い体質もあるのだろうかと私は思ったりしている。もう少し開かれた皇室にしていただきたいものである。

 さて、雅子妃が内親王をご出産になったということで、にわかに世継ぎのことが問題になり始めた。皇室の皇位継承について問題点を書いてみたい。

皇室は皇位継承の危機に立っている。このままではやがて皇位継承者がいなくなるからである。

 現在の憲法は、皇位継承について、第2条で次のように規定している。「皇位世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」そして、「皇室典範」には、第1条に「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とさだめ、第2条で皇位継承順位を次のように定めている。

皇長子(2)皇長孫(3)その他の皇長子の子孫(4)皇次子及びその子孫


1.     (5)その他の皇子孫(6)皇兄弟及びその子孫(7)皇伯叔父及びその子孫


そして、これらの皇族がいない時は、それ以外で最近親の系統の皇族が皇統を継承し、その時は長系を先とし、同等内ではちょうを先にする。


また、第3条には、「皇嗣に、精神もしくは身体の不治の重患があり、または重大な事故があるときは、皇室会議の儀により、前条に定める順序に従って,皇位継承の順位を変えることが出来る」となっていて、第9条には「天皇、皇族は養子をする事が出来ない」と規定されている。


 以上の規定を現在の皇位継承順序で考えてみると次のようになる。


1.     徳仁(なるひと)親王(皇太子)(2)文人(ふみひと)親王秋篠宮


2.     正仁親王(まさひと)(常陸宮)(4)崇仁(たかひと)親王三笠宮


(5)寛仁(ともひと)親王(6)宜仁(よしひと)親王桂宮


(7)憲仁(のりひと)親王高円宮


 の順になる。


 しかし、皇太子、秋篠宮以外の方は、この二人よりも年長である。(4)は85才、(7)でも46才である。と言う事は、秋篠宮以来、皇室には男子が誕生していないと言う事である。


念の為に書いておくと、女性は次のようになる。


   清子(さやこ)内親王天皇家の長女)*彬子女王(あきこ)
   (憲仁親王家長女)

  瑶子女王(同2女)*承子(つぐこ)女王(高円宮家長女)*典子女王(同2女)

 1993年6月9日、皇太子と雅子様の結婚の儀が執り行われて以来、未だに世継ぎのないことに関し、平成9年の誕生日での記者の「ご自身の後継についてお考えがあれば」という質問に答えて「この事の重要性、ならびに国民の皆さんの関心のほどはよく認識しております」とお答になっている。

  •  先に書いたように、皇室では養子縁組が禁止されているため、1995年に後継者のいない秩父宮家は勢津子妃の逝去と共に絶家の処置が取られている。この規定によれば、やがて、常陸宮家、高松宮家、桂宮家も同じ措置が取られる事になる。

 もちろん、秋篠宮家も現在は、女のお子様ばかりだから廃絶される事になる。この意味は、いずれは、宮家がすべて廃絶され、皇室そのものが存続不可能と言う事態が考えられるということでもある。


 そこで考えられるのが、女性でも皇位を継ぐことが出来るようにすべきだと言う「女帝」容認論である。この際、「皇室典範」を改正して女性でも皇位を継承できるように出来ないだろうかという世論もかなりあるらしい。


 それに対して、現在までのところでは国会での質疑の中に見られるように、宮内庁は否定的な見解を示している。


 たとえば、宮内庁宮尾次長の答弁の中に「世襲としているのは、皇室の長い伝統を踏まえた考え方になるのではなかろうか。そう考えると男系男子ということが、ずっと基本的な考え方として今までなされてきたわけでございます。」(1992年4月7日の答弁)要は、男系は日本古来の伝統であるから変えられないと「女帝」の可能性をはっきり否定している。

   しかし、世継ぎが生まれない中で、ほかの宮家も廃絶してしまうとなれば、

   なんらかの方策を講じないと天皇制自体が崩壊する事につながるのはいうまでも 
   ない。

   ここでは、二つの方策が考えられる。


 そのひとつは「女帝」を認める方向で法を改正する事である。もちろん過去には「女帝」が存在する。(10代―8人)しかし、これらの女帝は、天皇崩御した後に女帝となった場合や、未婚の女性に限られている。しかし、現在の世にあって生涯未婚のままというのは世間が許さないだろう。


 また、結婚を認める場合は、そのお相手をどの範囲から選ぶかなど大きな論議が起こる事は間違いない。


 もう一つの方策は、旧皇族の復活問題である。戦後「臣籍降下」した旧宮家は11宮家に上る。それらの旧宮家の末裔を復活させてはどうかと言う論議もある。


 たとえば、東久邇家の長男である。東久邇家は天皇家の最も近い親戚に当たる。その父、信彦氏は2才まで皇族であり、信彦氏の母、成子は昭和天皇のご長女、すなわち今の天皇の姉君である。だから、問題の長男は、天皇の従兄にあたると言うわけである。その上,信彦氏の父、盛厚氏は、終戦直後の総理を務めた稔彦氏の長男で、母は、明治天皇の9女聡子内親王である。


 これは一つの例だが、旧宮家を復活させる事によって、男系を続けられるという説も出ている。しかし、ここに大きな問題がある。一度、皇籍を離れた旧皇族の復籍については皇室典範にもはっきりと「いったん臣籍に下った物は皇族に復する事が出来ない」と明確に記されているからである。「女帝」「旧皇族の復帰」とも法の改正を経なければならず,かなりの困難が予想されている。

   これまで、皇室が途絶えないように様々な方法が取られてきている。


直系男子が途絶えた場合に備えて、世襲の宮家(伏見、桂、有栖川、閑院宮)の4親王家を置き、養子縁組も認めていたのである。また、御側女官(側室)を置く事を明治天皇の時までは普通であった。


 正室から生まれた子供が皇室を継ぐことは反ってまれでもあった。115代桜町天皇、116代後桃園天皇、117代光格天皇、118代仁孝天皇119代孝明天皇、120代明治天皇、121代大正天皇と9代続いて側室から生まれている。


 当時、医学が未発達のため子供の成育が悪く、中御門天皇の場合は皇子が14人生まれ、成人したのは2人、光格天皇の場合は、19人の皇子のうち育ったのが2人、孝明天皇の場合は、兄弟姉妹が15人もいたが、成人したのは天皇自身と、将軍家に降嫁した和宮内親王の二人だけであった。明治天皇15人の子供をもうけながら、5人しか成人せず、皇位継承が出来る男子は大正天皇だけだった。


 しかし、この御側女官制度は、周囲の存続を望む声が強かったにもかかわらず、昭和天皇の強い意思で廃止されている。

 世界には現在も30近い君主国があるが、王家の家系が最も長く続いているのは日本

 だけであると言われる。

 たとえば、タイの場合、最初のスコータイ王朝とそれを併合したアユタヤ王朝と、そ

 の後にラーマ一世の建てたチャクリ王朝との間には、系譜上の関係はない。


 イギリスの場合は、6世紀後半のイングランド7王国時代を別にして、1066年に、イングランドを征服したノルマン公ウイリアム一世から現在のエリザベス二世までの九百年は辛うじてつながっている。


 しかし、その系譜を見ると、ノルマン王家(88年間) プランタジネット王家(245年間)ランカスター王家(62年間)ヨーク王家(24年間)チューダー王家(118年間)スチュアート王家(111年間)ハノーバー=ウインザー王家(1714年から現在まで)への王位継承はかなり血縁が遠い。それらに較べると、日本の場合は、大和朝廷の頃から千数百年間は血縁が続いている。


 女帝について今一度考えてみたい。 


春すぎて夏来にけら白妙の衣ほすてふ天の香具山」を詠んだのは約千三百年前に十年ほど在位した持統天皇であるが、持統天皇は女帝である。その前後200年ほどに6人の女帝が出現し、その内二人は2度名を変えて即位している。江戸時代の二人と合わせて合計8人、十代の女帝が存在したことになる。天照大神卑弥呼も女性だが、この二人は女帝には加えられていない。しかし、卑弥呼は当時中国からは女王として認められていたようである。


 ではどうして女帝が生まれたのかを考えてみたい。天皇が亡くなった後、男系後継者が未だ年若くその任にふさわしくないと言うような場合に皇后が女帝となった場合や、


未婚の女性が女帝となっている。


 しかし、これも、女帝を置くべきでないと言う風潮が次第に強くなるに従って、幼児でも天皇に即位させるようになってくる。そのうち、儀式や制約の多い天皇の位を早めに退き、身軽になって上皇になり院政を敷くように変化して来るのである。

   ついでながら、終身在位となったのは明治天皇以来である。

   ここで皇室典範の参考になった各国の皇位継承についての考え方を取り上げてみ

   たい。

   明治天皇が進講を受けていたテキストによると

 「欧州にあっては男を先にし女を後にするのは各国みな同じ」ながら(1)フランスはローマと同じく女子は必ず王位を継ぐこと能はず、スエーデンはベルギー、プロシア等また然り。(2)ドイツにては王族中、だ男子の位をつぐべきものが全く欠くるときは、血統最も近き女子、位を継ぐを得。されども、その子に至りては、また男子を先にし女を後にする。これはオランダも同じ。


1.     イギリスの法は、本族中に男子欠ければ、たとえ、支族中に男子ありといえどもこれを措き、必ず本族中の女子を立つ。イスパニアポルトガルまた然り。この法を用ふる国においては、王族氏族(王朝名)の変更する事多次なり」


となっていて興味深い。


 結局日本の場合には、古くから影響を受けていた中国の考え方に加えてフランスなどの法の影響を受けたのかもしれない。しかし、皇室典範が決まるまでにはかなりの年月を要している。明治9年に第1次草案が作られ、明治11年に第2次草案が明治13年に第3次草案が作られ明治天皇に上奏されている。面白い事に、この第3次までの草案には「やむを得ざるときは女統入りてつぐことを得」となっていて、イギリス、オランダの影響がみられることである。この中で問題になったのは「女統」と言う言葉だったらしい。「女統」後継になると、皇女が嫁いだ先で生まれる子や孫も含まれ、当然「異姓」となることから強い反対があったらしい。(たとえば、皇女和宮の子供の場合、徳川家になってしまう)とにかく、やっと明治22年2月11日になって「皇室典範」が制定されたのである。


 さて皇位継承問題である。


現在の皇室典範のままでも、皇太子、秋篠宮がご存命の間、皇室は存続する。だから、皇室典範の改正は急がなくても良いと言う考え方もある。しかし、今後30、40年もすると世の中の世代交代が進み、皇室存続のための情熱が失われる事も考えられる。そのために、今後数年の間に、皇太子妃及び秋篠宮妃に男子の誕生が見られない場合は、皇室典範の見直し、改正を考えるべきだと考える。


 初めにも書いたように、アメリカ人でも金で買ってでも皇室が欲しいという気持ちを持っている人も少なくない。ケネディ家に対する異常なまでの態度はその表れであると言われている。


 日本の皇室は世界に誇るものである。その上、皇室に負っている事が少なくない。世間では、税金食いだとか、不用だとかという論議もあるが、初めにも書いたように、それは天皇、皇后の各方面におけるご活躍をご存知ないためではないだろうか。


 天皇を神格化し、政治の表舞台に立たせ足りすることには断じて反対である。しかし、古い昔からそうであったように、日本の象徴としての皇室は守って行かねばならないと考える。それは日本の誇りであるからである。