中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

スコットランド独立運動について

スコットランド独立の住民投票は反対が55%となり、否決された。
激しい運動合戦ではあったが、整然と運動がなされていたようで
さすがと言わねばならない。
NHKのNEWS・WEBなどを見ていると、若者たち?がどんどん
ツイッターしているのがよくわかる。
1昨日のスコットランド独立の住民投票についてのツイッターを見ていると
どうして独立しようとしているのか、なぜ今なのかという・・とツイットが
おおかった。
今の若者は海外旅行にもよくいくので物知りだと思っていたが、
意外と知らないのだなと感じたものだ。
  私がスコットランドを訪れたのはたしか1996年あたりだったかと思う。
その時のことをJAニュース新聞に掲載したので読んでくださった方も
あるかと思うが、その部分だけをここに転載しておこう。
スコットランド独立運動には長い歴史がある。ユナイテッドキングダムとはいっても
結束が固いわけではない。イングランドによる周囲への抑圧が今となっても
消えてはいないのだ。
 
JAコラム JA2012年2月号   連載 第25回
 旅の思い出あれこれ(その12イギリス、アイルランド
 
 イギリスとアイルランドとの関係については、本紙2000年に「差別問題」を取り上げる際に書いたことがある。私たち日本人は、海外旅行が盛んな割には外国事情に疎い人が多い。学校で西欧史など詳しく習わなかったからだと言い訳をする人がいるが、それは怠慢と言うほかないだろう。
 そもそも、<イギリス>とか<英国>などと国名があるわけでもないのに、日本ではそれが当然のようにまかり通っていることが不思議でならない。このような事情が日本人をして西欧を正しく理解できなくしてしまっている原因ではないかと思ったりしている。
 日本人が言うところのイギリスや英国とは、イングランドウエールズスコットランド北アイルランドの4国で構成する「ユナイテッドキングダム(連合王国)」または、「グレートブリテンおよび北アイルランド」とかいわれるものである。だからUKと呼ぶ場合は北アイルランドが省かれている印象を受ける。「グレートブリテン」は、イングランドウエールズ、スコットランドがある島のことで、日本で言い換えるならば「本州」のようなものだ。それに奪い取って返さないアイルランドの北部が入って4つの国の連合王国ということになる。
 こういう事情を知らないで連合王国(こういう言い方のほうがややこしいが…)を旅していると恥をかくことにもなりかねない。
 言葉や通貨が同じだから一つの国ではないかと考えがちだが、それも違う。特にスコットランドは独立心が強く、イングランドと同じに扱ってほしくないという気概が強く独自の通貨も持っている。国境ではパスポートを要求される場合もある。私が乗ったバスの場合は、スコットランドの法律による荷重制限によってバスから荷物を全部降ろさせ、荷物は別の車で運ばされるという事態を招いた。運転手によるとスコットランドの嫌がらせだという。北海道から沖縄まで同じ法律の中で生活できるのとはわけが違うようなのである。
 
1カ月間のバス旅行
 私が初めてアイルランドに旅したのは1996年で今から16年も前のことになる。ロンドンを起点にして約1カ月間西ヨーロッパ諸国を回り、1週間後にはロンドン~ウエールズアイルランドスコットランドイングランドを巡る約1カ月間のバス旅行に参加した。バスの乗客のほとんどがオーストラリア人だったのは、オーストラリアで企画されたツアーだったからだと思われる。私たちもオーストラリアからツアー参加を申し込んだのだ。
 今回から何度かに分けてこの時の経験を、記憶をたどりながら書きたいと思っている。さて、バスはロンドンを出発して最初にバース(Bath)に着いた。2世紀からローマ人によってつくられた温泉地である。風呂(bath)という言葉になった語源的な存在だ。
 バースを出てウエールズ地方に向かった。しかし今どんなにもがいてもウエールズ地方での思い出が全くない。特に印象的なところがなかったのか、私の記憶装置の問題なのだろうか。もともとウエールズという地名もあまり知られていない。ブリテン島の西側の出っ張り部分だけの小さな国だからだし、歴史上にもあまり登場しない地味な存在でもある。アイルランド共和国と同じケルト民族ながらアイルランドとは別の道を歩いてきたような印象がある。
 というわけで、ウエールズのホリーヘッドからフェリーボートに乗ってアイルランド共和国の首都ダブリンへ到着した。ダブリンからの記憶は今もって鮮明に覚えている。だからこの項ではアイルランドのことを深く書きすすめたいと思っている。
 アイルランドについては興味が絶えることがない。特にという理由はないが、掘り下げるほどに関心が深まるから不思議な国でもある。
 
虐げられた歴史
 第2次世界大戦が終わるまでの800年間にもわたってイギリスから植民地として差別し続けられたという、信じられないほど虐げられてきた国である。800年間というのがどれだけ長い期間かを知るためには、日本の徳川幕府が260年間だったことを考えても想像できる。日本が朝鮮半島を植民地とした期間が35年間だったことから考えても800年間の長さを実感できるかもしれない。その間、結婚の自由も奪われ、職業の選択の自由も奪われていた。何よりも過酷な収奪が行われ、アイルランドは世界的に見てもひどい貧しさの国だった。
 アイルランドから逃れてアメリカへ移民する人たちが増えたのもそういう背景があるからである。アメリカ映画を見ているとアイルランド人が多く登場する。その多くは「警官」である。アメリカでは警官はアイルランド人がなるものだと思われるほどになっていたらしい。映画「タイタニック」では、タイタニック号の船底の格安の部屋でアイリッシュダンスに興じる風景が描かれている。アイリッシュダンスを知らない人には理解できないだろうが、映画ではそれを見せることで、アイルランドからアメリカへの移民集団だと分かるように設定されている。アイリッシュダンスを舞台化したものに「リバーダンス」がある。素晴らしいリズム感と機敏なダンスは時間の経(た)つのも忘れるほどの迫力がある。映画「タイタニック」は、アイルランドの貧しい青年と上流階級の娘との恋物語でもある。
 
プロゴルファーに
日本語を教える
 私が個人的にアイルランド系の人と出会ったのは、パースで日本語を教えていた時だった。Nick O'Hern(ニック・オハーン)という20歳の青年が私のクラスに来た。約2年間教えた。やさしい感じの青年だった。プロゴルファーだったが21歳で超美人の奥さんをもらった。その後頭角を現し、アメリカに渡り大活躍をした。ゴルフファンなら記憶にあるだろうが、マッチプレーであのタイガーウッズに2度も勝ったのは彼だけである。それから「タイガーキラー」と呼ばれるようになった。一時は世界ランキングのかなり上位まで来ていたのだが体調を崩し、その後低迷した(それでも毎年1億円程度は稼いでいる)。昨年末から復活基調にあり、1月現在の世界ランキングは138位である。今年は100位以内まで戻ってくるものと期待している。
 英語と日本語をエクスチェンジしていたアイルランド人がいた。ある荒れた天気の日にやって来たので「今日はお天気が悪くて…」と私が言うと「いやいや、ラブりー!」嬉(うれ)しそうに言う。彼の故郷のアイルランドでは、雨風の強いこんな日が多いという。このような気象もラブリーと考えれば、どんな日であっても、気持ちの持ち方次第ではラブリーな気分でいられるのだなと、彼から教えられた気がした。
 ついでに言うならば、O'Hernのような綴(つづ)りになるのはアイルランド南部地方の人名で、Oとなる場合は、土地の名士であった名残でもあるらしい。有名な人では劇作家のユージン・オニール、女流作家のフラナリ・オコーナ、荒野の風景画で有名な女流画家のジョージア・オキーフ、女優のマーガレット・オブライエンやモーリン・オハラ、「風と共に去りぬ」のヒロインとして多くの人の記憶に残っているスカーレット・オハラもいる(演じたのはあの大女優ヴィヴィアン・リー)。ついでに言えば、スコットランドでは、「誰々の息子(MAC)」という名も多い。ドナルドの息子(マックドナルド)、女王の息子(マッククイーン)などである。有名人からそんな名を探し出すと楽しいものだ。
 
アイルランド系の大統領
アイルランドカソリック国なので、子沢山で知られている。本国のアイルランドには数百万人しかいないのに、移民先のアメリカでは数千万人もいるほどに人口を増やしている。
貧しいアイルランドから移民した子孫からアメリカ大統領になった人がいる。彼はカソリック教徒から出た最初の大統領でもあった。ジョン・F・ケネディ大統領である。その後第40代大統領にレーガンが選ばれている。彼の場合は父がアイルランド人、母はスコットランド人だった。
 
堂々と物乞い
 話がそれたが、ダブリンについて最初に驚いたのは物乞いの多いことだった。道路に10人ほどが缶を持って座っている。その態度には物乞いをする人特有の悲しげな様子もないし、卑下をうかがわせる風もない。堂々と物乞いをしている姿に驚いた。首都のど真ん中でどうしてこんなことが許されるのだろうかと思った。
 あとでわかったことだが、カソリック教では、持っている人が貧しい人に分け与えるのは正しいこととなっている。だから貧しい者が、物持ちから分け与えてもらうのは当然であって卑しいことではないという考え方が根っこにあるようなのだ。しばらく見ていると、市の職員のような人が、山ほど品物を抱えてきて彼らに分け与えると、彼らは静かにどこかに消えてしまった。
 ダブリンからバスはアイルランド島を一周する旅へと出発する。もちろん北アイルランドは抵抗運動の激しい時代だったので、予定には入っていなかった。 
 
旅の思い出あれこれ(その13 イギリス、アイルランド(2)
 
 先に書いてしまうと、アイルランドというところは大きく取り立てるほどの観光名所はないに等しい。それなのに魅力的なのはなぜなのだろうか。
 
畑の石積み
 バスが西に向かって走っていくと、特に目を引くのが畑に所有を表すような石積みだった。石は2メートルほどの高さに積まれているが、日本の石垣のようにしっかり組んでいるというのではなく、大雑把に積み重ねられている感じである。日本では田畑の所有を表すのは「あぜ道」であって石を積み上げることはしない。どうしてこれほどまでに所有を強調するのだろうかという疑問があったが、やがて解けた。
 アイルランド島というのは大昔には氷河で覆われていたらしい。氷河が(イギリスの方向に向かって)移動する際に島の西側の土砂を削り取って東の方に持って行ってしまったのだ。だから東側は肥沃(ひよく)な土壌であるのに対して西側はほとんど土壌がない状態になってしまった。吹けば飛んでいってしまうようなわずかな土砂を守るために石積みをしているというわけである。石積みに穴が見えるほどにざっと積まれているのも、風が吹きたまらないようにという配慮であった。時には海岸から海藻を運び、土に戻るのを待つという気の長い作業を繰り返しながら土壌を守り、農作物を作っていたのだった。
 
海外移住者とアメリカ大統領
 どこを通っても家は小さく豊かさを感じることはなかった。貧しさのゆえに多くの国民は海外へその住処(すみか)を求め、本国のアイルランドの約10倍の人が外国に移り住んでいるという現実がある。特にアメリカへの移民は多く、その子孫の中からケネディ大統領やレーガン大統領が生まれた。ケネディ大統領の場合はアメリカ大統領としては最初のカソリック教徒だったことで注目を集めた。アメリカという国はWASP(ワスプ。ホワイトアングロサクソンで宗教はプロテスタント)が歴代の大統領をつくり育ててきたことで有名である。世界各地からの移民が増えWASP人口も少なくなりつつある中で黒人のオバマ大統領が誕生した。現在進行中の共和党大統領候補選出選挙ではロムニー氏が有力な戦いを進めている。しかし彼はWASPではなく、キリスト教では少数派のモルモン教徒である。もし、彼が大統領に選ばれるとすれば、アメリカという国は大きく様変わりしてきたことを告げることになるだろう。その先鞭(せんべん)をつけたのがケネディ大統領だったともいえる。
 
ジャガイモがアイルランドを救った
貧しいアイルランドだが、どんな土地にでも生育するジャガイモが16世紀に入ってきて農民を飢えから救った。先月号で書いたように800年近くイギリスによって過酷な支配を受け、その上に土壌がやせていて十分な農産物を得られず、農民たちは貧困の極みにあっただけにジャガイモによる恩恵は大きく、1625年ごろまでには全土で栽培されるようになっていたらしい。
 しかし19世紀半ばに「大飢饉(だいききん)」と呼ばれる事態が発生した。ジャガイモに病害菌が発生し栽培できなくなったためである。この大飢饉時代にアメリカ移住した人たちが多く、ケネディ家もその一家である。ジャガイモに病害菌が発生しただけで一国の「大飢饉」が起こり民族の大移動が起こったことを考え合わせると、ジャガイモの存在のすごさを感じる。
 
妖精の多い国
 アイルランドに行かれた人は、お土産店なで売られている、緑の帽子をかぶった小さな人形を見たに違いない。アイルランドカソリックの国なのだが、もともと存在していた土着宗教が根強く残っていたらしい。最初にカソリック教を持ち込んだ司祭が、キリスト教三位一体(父と子と聖霊)を民衆に説く時にクローバーの葉を見せて説明したといわれている。これがアイルランドに残る三つ葉のクローバーの紋様になっている。
 今ではいろんな場面で三位一体という言葉が使われ(小泉元首相は構造改革の際にも使っていた)、その意味もそれぞれに理解され、意味があいまいになっているが、本来はキリスト教の重要な部分なのだ。
 アイルランド出身のラフカディオ・ハーンが来日して日本が大好き人間になったのも、日本にはお化けが多かったからだと知られている。心の故郷に似たものを感じたのだろう。 どの街角にも妖精がいるといわれているし、今も信じられているらしい。そういう素朴な国民性が何とも親しみやすい風土を生んでいるように感じられた。
 この旅の思い出は、観光案内を目的としていないので名所旧跡の案内はしないが、今も目に焼き付いているのは、大西洋の海面から200メートル以上も垂直に切り立つモハーの断崖(破滅の断崖)である。アイルランドに行かれたらぜひとも訪れることをお勧めするが、人生に悲嘆している人は行かないほうがよい。
 
 アイルランドからイングランド北西部へフェリーで渡った。湖水地方と呼ばれるイギリス全土の中でも最も美しい地域でもある。この地域にはカンブリア山地があり、同山脈の最高峰スコーフェル山(標高978メートル)までバスで登ることができる。周辺はほとんどを湖水に囲まれていて、イングランドを代表する景勝地として名高い場所である。手入れの行き届いた石造りの家が集まる小さな村々と、丘や草原を縫って走る石積みの塀などとの組み合わせが、特有の景観を生み出している。自然に恵まれた静かな雰囲気に独特のものを感じた。ここで買い求めたセーターを今も愛用しているが、毛質がよく着心地が良い。
 
 ここではスコットランドもイギリスということで書きすすめることにする。
しかし、湖水地方からスコットランド国境?に来た時にバスは突然パトカーによって止められ重量計に乗せられた後、バスからすべての荷物が運び出された。何のことか理解できなかったが、ガイドさんの話では「スコットランドの嫌がらせ」だということだった。それらの荷物は別の車で運ばれたが、観光客にとっては驚きだった。
イングランドと争ってきた歴史は11世紀からと長い。1707年にイングランドとの合併以来議会は統一されてきたが、1970年代スコットランドに近い北海油田が開発され、イギリスに莫大な利益をもたらす一方で、スコットランドナショナリズムを刺激して、独自の議会設置を求める声が高まった。1979年の議会設置の是非を問う住民投票では、賛成派の投票者が過半数を超えたが、結果的に否決された。しかし1997年に、スコットランド出身のトニー・ブレア政権の下で再度住民投票が行われ、今度は可決された。
 これを機会に議会を持つことになったのだが、では「独立」するのかというとイギリス内にとどまるという。日本人には考えられない不思議な関係にある。もともと、イギリスを形成している国のうちイングランドだけがアングロサクソンで、スコットランドウエールズ北アイルランドケルト民族である。このような微妙な関係の上に長年立っているだけに、イギリスという国は外交がしたたかなのかもしれない。単独民族ではないのに、そうだと思い込んで安穏としている日本と外交力が違うのも分かるような気がする。
 
 スコットランドといえばマグパイプを思い出す。何ともいえないその音色は、なぜか私もスコットランドが故郷だったのかもと思わせるほど懐かしく響いてくるから不思議だ。マグパイプの演奏はあちこちで聞く機会があった。
スコットランドでは、いろんな街を訪れたがここではエディンバラについて書いておこう。言うまでもなくスコットランドの首都である。
ちょうど私たちが行った時はエディンバラ国際フェスティバルが開催されていた時だったのでとても賑(にぎ)わっていた。この国際フェスティバルは公演芸術(performing arts)の祭典であり、8月から9月にかけて3週間にわたって開催され、主催者によって招待された、オペラ演劇音楽(特にクラシック音楽)、ダンスなどの分野の世界一流の芸術家が公演を行うものなのだ。1985年には、蜷川幸雄の演出による「マクベス」が上演され、高い評価を受けたということだが、私たちが訪れたのはそれから10年ほど経(た)っていた。期間中は、エディンバラ城内でミリタリー・タトゥー(軍楽隊の分列行進のショー)が毎夜催され、街中の至る所で大道芸人がパフォーマンスを繰り広げるなど、荘重な古都エディンバラが華やかな祭りの雰囲気に染まる。
エディンバラ城の下町には、有名ブランド店が軒を連ねている。しかし、そこから見える城の雰囲気はあまり好きになれない。日本のお城のような優雅さは見られず、いかつく険しい断崖の上に立つ要塞(ようさい)としか見えないからだ。せめて祭りの雰囲気だけは楽しもうと城内を歩いたが、チケットがなければ公演を見ることができない。一流の大道芸人たちのパフォーマンスを楽しむだけに終わってしまったのは残念だった。
 
ケンブリッジとオックスフォードの二つの大学都市は、多くのカレッジの集合体になっている。もちろん総合大学としての卒業が認められるが、入学の際にも卒業の際にもカレッジの承認が必要になっている。世界に誇る歴史あるカレッジが50近くも集まっている。日本やアメリカで言うところの単科大学という意味のカレッジではないというところが分かりにくい。オックスフォード大学は11世紀発祥と歴史が古く、次いでケンブリッジ大学都市が生まれた。オックスフォードでバスを降り、一つのカレッジの中に案内されたがその雰囲気に歴史を感じた。こういう環境で学べる人は才能も必要だろうが、やはり幸せだろうなと思う。
 
シェイクスピアの町エイヴォン
 有名な街へ行くと故人がその町を支えているのだということを痛感する。スペインのバルセロナではガウディが背負っている感じだし、オーストリアのウイーンではベートーベン、モーツアルトヨハン・シュトラウス親子が支えているかのような錯覚に陥る。イングランドストラトフォード・アポン・エイヴォンは、こぢんまりとした町なのだがシェイクスピアが支えていた。他に誰も要らない、シェイクスピア様だけがいてくだされば町は安泰という雰囲気だった。街を背負って立てるほどの有名人になるには、銅像が建つ程度ではかなわないだろうと思う。日本では、安芸の宮島を建立した平清盛などわずかしないないのではないかと思う。世界のいろんな街や都市で、世紀を隔てて街を背負っている人たちを今一度見直して考えるのもよい。