中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

学校だけが学びの場ではないと思っている

 大学入試一次テストに挑んでいる人たちは、世紀の

記憶に残るコロナ禍の中でのトライとあってあれこれ

思い悩む事態に遭遇したかもしれない。それもこれも

あとで思い起こせば生涯語り継げる一幕ドラマとして

生涯ながく記憶に残ることでしょう。

どういう大学を、どういう目的で受験しようとしている

のかは人それぞれだろうとおもう。

高い志を持っている人もいれば、とにかく大学に入って

おけば何とかなるだろうという人もいるだろう。

欧米諸国のようにスペシャリストを作り出すための大学

教育ではなく、ゼネラリストとしての教育をする大学が

多い日本の場合は気楽に入学できる場でもあるが・・。

 司馬遼太郎さんのエッセイなどを読むと、左耳がやや難聴

で子音のKが聞きづらくたびたび失敗したということもあり、

英語の授業でニューヨークの意味を質問したところ、土地に

意味があるか!お前など卒業できぬかもしれんなどと言われ

たことが起因して、学校よりも図書館で学ぶ時間のほうが

長くなったとも書いておられる。 

 私の場合は、右耳がほとんど聞こえず、40歳で真珠腫の手術

を受けるまで、6歳からずっと耳から臭い膿が出ていた。40歳

になったころ、ようやく医学が真珠腫の顕微鏡下手術ができる

までになったので恩恵を受けたということだ。45年前のこと

になる。 両親、兄弟がいなかったために、私が毎夜自分で

紙縒りをつくって耳掃除をしているのさえ、しらなかったのか、

見て見ぬふりしていたのか、だれも案じてはくれなかった。

だからこそ・・というとなんだが、人一倍自立心が高くなった。

自分のことは、どんなことでも自分一人で解決しなければ

ならなかったからだ。だれかに頼るなんてことはできなかった。

司馬遼太郎さんが対談の中で、日本国内ではだれが一番えらい

人だと思われますか尋ねられ、高田屋嘉兵衛さんでしょうと

こたえています。 私が育った淡路島の志筑の隣町の塩尾に

高田屋嘉兵衛さんの碑が建っていたが、子供のころは塩尾の港を

作るのに貢献した人だろうなというていどでしか、高田屋嘉兵衛

さんを知らなかった。「菜の花の沖」という小説を読んでこの

偉大な人を知ったのは中年になってからだった。

 高田屋嘉兵衛さんは、12歳にもなって親の飯が食うなんて、

と、12歳で家を出て独立した。 私は、仕方なくだが15歳で

家を出て独立した。 15歳以降はほとんど独学と言ってよい。

同級生で大学を出た連中の何十倍かの本を読んだ。耳の悪かった

わたしには司馬さん同様に本を読み、目から学ぶことが脳に刺激

を与えることになった。 人それぞれに、学びの手段があるとおもう。

講義を聴いて理解できる人と、本を読んで理解が進むタイプのひと

などである。 自分に合った学習法を会得したひとに、ご褒美が

いただけるような気がしている。